第4章 詩羽に謝れ
鳴海絃星の身体がぴたりと止まる。何か言うより早く、有無を言わせぬ声がもう一度降ってきた。
「詩羽に用ができた。お前は先に帰れ。タクシー拾って帰ってこい」
絃星は指先をわずかに丸め……結局、黙って車を降りた。
排気音だけを残して走り去る車を見送りながら、胸の奥がひやりと冷えていく。
ここは市街地から外れた新開発区の端だった。周囲に人影はひとつもない。
かなり歩いても、タクシーは一台も捕まらなかった。
短期のリハビリを受けたとはいえ、体力はまだ戻りきっていない。息は上がり、視界の端が何度も暗く滲む。絃星はやむなく道端の街灯柱に手をつき、しばし身体を休めた。
果てしなく続く道を見つめ、絃星はふっと笑う。
この道を歩き切ることが、この滑稽な結婚を終わらせる最後の数歩だと思えばいい。
どれほど歩いたのだろう。
空はいつしか暮れ色に染まっていた。両足には靴擦れができ、水ぶくれが潰れている。踏み出すたび、錐をねじ込まれるような痛みが走った。
それでも、ようやく一台のタクシーを拾えた。
八幡家に辿り着いたころには、夜はすっかり更けていた。
玄関をくぐった瞬間、リビングから弾んだ声が響く。
「詩羽ママ、この『おかえり』の看板、僕が描いたんだ! どう? 上手でしょ?」
「もちろん。うちの一辰が一番よ」
声に引かれて視線を向けると、リビングの中央に横断幕が掛けられていた。歪んだ文字で『ママ、おかえり』。
「パパ、座ってないで、詩羽ママ手伝ってよ」
八幡一辰が八幡誠言の手を引っ張り、若林詩羽のそばへ連れていく。
三人の空気はあまりにも和やかで、知らない者が見れば、彼らこそ本当の家族だと思うだろう。
見ないふりをしたかった。けれど胸の奥に広がる細かな痛みが、それを許さない。
絃星は眉を寄せたまま、まっすぐ通り過ぎて二階へ上がろうとした。
そのとき、一辰がこちらに気づく。さっきまで笑っていた顔が、たちまち曇った。
「なんでこんなに遅いの!?」
彼は絃星の前へ駆け寄り、顔を上げて責め立てる。
「パパ、迎えに行ったんでしょ? また意地張って車に乗らなかったの?」
問い詰められ、絃星は思わず誠言を見た。
誠言は眉間に皺を寄せ、苛立ち混じりに言い放つ。
「タクシーで帰れと言っただろう。わざとか?」
その言葉に、絃星はむしろ笑えてきた。
どういう神経をしていれば、そんなことを平然と言えるのだろう。
もう相手にする気力もない。今の絃星は、ただ休みたかった。
視線を引き戻し、そのまま階段へ向かおうとすると、一辰がさらに腹を立てる。
「ねえ! 僕とパパが話してるのに、聞こえないの?」
そう叫び、絃星の服をぐいっと掴んだ。
「詩羽ママが、どれだけ時間かけて歓迎の準備したと思ってるの。せめて『ありがとう』くらい言うべきでしょ!」
「ありがとう?」
絃星の声はひどく掠れていた。
「私の息子を唆して、実の母親を殺させようとしたことに? それとも私のものを全部奪って、当然みたいな顔をしてることに?」
絃星は若林詩羽へ視線を投げ、嘲るように笑う。
「若林詩羽。あなたが欲しいのは、この父子でしょ? あげる。だからお願い……もう二度と、私の前で吐き気のする真似をしないで」
若林詩羽の顔から血の気がさっと引いた。目元も瞬時に潤み、震える声が漏れる。
「絃星……どうしてそんな言い方を……私はただ……あなたに家のぬくもりを感じてほしかっただけ……他に何も……もし私がいることであなたがつらいなら、今すぐ出ていくわ」
そう言って背を向けた瞬間――
一辰が、怒った小獣みたいに弾けた。
勢いよく絃星を突き飛ばす。
体力のない絃星は大きくよろめき、腰を玄関の棚の尖った角へ強く打ちつけた。
「っ……!」
鈍い痛みに、思わず低い呻きが漏れる。
「この悪い女! なんでいつも詩羽ママをいじめるんだよ。大っ嫌い!」
一辰は若林詩羽の腕を掴む。
「詩羽ママ、行かないで」
「一辰、だめよ」
若林詩羽はそっとその手を外し、涙を糸の切れた珠みたいに零しながら言う。
「本当のお母さんが帰ってきたんだもの。私ももう行かなくちゃ……」
「いやだ、やだ……ううっ……あの人なんか僕のママじゃない……」
たちまち泣き声が広がる。
一辰と若林詩羽は抱き合い、まるで絃星だけが二人を苦しめる悪人みたいだった。
「黙れ!」
八幡誠言が大股で歩み寄り、若林詩羽を引き寄せて自分のそばへかばう。
そして絃星を見据え、冷然と言い放った。
「鳴海絃星。どうしてお前は、帰ってくるなりこの家をめちゃくちゃにする。詩羽に謝れ」
絃星はゆっくりと身体を起こす。腰の痛みで視界が揺れた。だが、それ以上に彼の言葉のほうが、骨身に染みるほど冷たい。
青春のすべてを捧げるように愛した男を、絃星はじっと見つめる。
積もり積もった悔しさも、寒々しい失望も――その瞬間、不思議なほど静かな麻痺へと変わっていった。
自分は本当に滑稽だったのだと、そう思う。
こんな男に、かつて夢を見ていたなんて。
「何がおかしい。詩羽に謝れと言っている」
「誠言、もういいの」
若林詩羽が首を振る。あまりにもいじらしく、誰が見ても庇いたくなる顔で。
絃星は誠言をまっすぐ見据え、一語一語、はっきりと告げた。
「八幡誠言。謝るべきなのは、最初から私じゃない」
その言葉を聞いた途端、なぜか誠言の胸に、説明のつかないざらつきが残った。
絃星は続ける。
「私が邪魔なら、すぐにでも出ていく。離婚協議書……八幡社長は早く署名して」
言い切ると、もう誰の顔も見なかった。
腰と足裏に走る鋭い痛みに耐えながら、一歩ずつ、二階へ上がっていく。
「止まれ!」
誠言の鋭い声が飛ぶ。
けれど今回ばかりは――鳴海絃星は、振り返らなかった。
