第1章
「知優、愛してる! 君は俺の人生でいちばん大切な人だ。命を懸けて守る。だから――俺と結婚してくれ。ずっと一緒にいてほしい!」
見渡すかぎり、薔薇、薔薇、薔薇。
その真ん中で、宝生知優は氷みたいな顔で立ち尽くしていた。
スーツ姿で跪き、熱のこもった言葉を投げつけてくる林原裕樹を、ただ見下ろす。
四年も愛した顔だ。眉も目も、何ひとつ変わっていない。
なのに――いまの彼からは、じわりじわりと吐き気を催す匂いが滲み出てくる気がした。
半時間前。
控室へ向かった知優が偶然目撃したのは、林原裕樹と義妹の宝生ミクルが、躊躇いもなく身体を重ねている光景だった。
二人は「もう我慢できない」とでも言うように貪るような口づけを交わし、林原裕樹は囁いた。
たとえ知優と結婚しても、宝生ミクルのことは絶対に疎かにしない、と。
一枚一枚の映像が、ひとつひとつの言葉が、目と心臓を殴りつける。
裏切りの痛みが神経を攫い、足元が崩れそうになるのを、奥歯を噛みしめて堪えた。口の中に鉄の味が広がる。血が滲んだのだろう。
それでも、無理やり飲み込んだ。
完璧な恋人。彼女を深く愛しているはずの林原裕樹。
――最初から、腐りきっていた。
もしあの場面に出くわしていなければ、今ごろ彼の花束を受け取り、力いっぱい頷いて「喜んで」と答えていたはずだ。
けれど現実にあるのは、林原裕樹の演技に感嘆するしかないという虚しさだけ。何年も、騙されていた。
宝生知優は動かない。言葉もない。
返事のない誓いに、林原裕樹は顔を引きつらせ、花束を受け取れと目で催促してきた。
観客席には大勢の招待客。今日は二人の婚約披露宴なのだ。
宝生知優は、その合図を読めないふりをした。
――その瞬間。
背後の巨大スクリーンがちらつき、切り替わった画像に、会場中が息を呑む。
誰かが口元を押さえ、かすれた声を漏らした。
「うそ……!」
スクリーンに映し出されたのは、露骨すぎるベッド写真だった。
数百枚が一斉に流れていく。部屋の背景もばらばらだ。――どれだけ寝たのか、推して知るべし。
しかも男の顔は、はっきり映っている。
林原裕樹。
女の顔だけが巧妙に外されている。けれど知優にはわかる。相手は宝生ミクルだ。
空気が、一瞬で不気味なほど静まった。
呆然としたのも束の間、宝生知優は青ざめた林原裕樹から視線を外し、客席でわずかに得意げな目をしている宝生ミクルを見る。
――そういうことか。
宝生ミクルが、既成事実で「婚約」を押し通そうとしている。
林原裕樹はざわめきの中で我に返り、慌ててスクリーンの電源を落とした。
額には冷や汗。視線は宝生知優に縋りつく。
「知優、聞いてくれ! 違うんだ、今のは……お前が見たのとは……!」
ついさっきまで、誰もが二人の愛を羨み、似合いだと囁いていた。
それが今や、見えない平手打ちが容赦なく林原裕樹の頬を打ち、先ほどの誓いさえ最大級の笑い話に変える。
世界は、瞬きをするほどの時間でひっくり返る。
宝生知優は林原裕樹に余計な視線すら与えず、周囲の異様な目を受け止めながら壇上へ上がった。
マイクを手に取る。澄んだ声がスピーカーから会場へ広がる。
「皆さま、見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません。……本日の婚約は、取り消します」
誰も気づかない。
彼女のマイクを握る手が、かすかに震えていたことに。
心が痛くないはずがない。
四年も愛した相手だ。幸福まであと一歩というところで、彼は彼女を底なしの奈落へ突き落とした。
林原裕樹の瞳孔が縮む。怯えは一瞬で怒りに塗り替わった。
「宝生知優! この婚約は、二つの家の結びつきだ! お前が勝手に破棄して、宝生家がその後始末をできると思ってるのか?」
宝生知優は静かに、怒りで歪む顔を見返した。
「言い忘れてたけど――鈴崎家の縁談、受けたの」
あの不快な場面を目撃した直後。
彼女は自分にたった一分だけ、呼吸を整える時間を与え、三分で状況を分析した。
快刀乱麻。それが宝生知優の流儀だ。
人を見誤り、想いを誤って注いだなら、最短で手を引く。
どれだけ苦しくても、悲しくても、表には出さない。
それが宝生知優だ。
林原裕樹は信じられないという目をして、声を荒げる。
「金のために、あの目の見えないブサイクと結婚するってのか? 俺たちの四年は何だった! 遊びか? それともお前は自分を、金で取引される品物だと思ってるのか。より高く買うやつに売るって言いたいのか!」
宝生知優の瞳に、冷たい怒りが宿る。
「控室で見たこと――この場で説明してほしい?」
林原裕樹が悪いのに、よくも四年を持ち出せる。
「私が鈴崎潤と結婚しなかったら、あなたと結婚しろってこと? ……浮気男と一緒になれって?」
語尾をわずかに持ち上げ、嘲りを隠さない。
林原裕樹は歯を噛みしめ、花束を床へ叩きつけた。
「触らせもしない女を、四年も待てる男がどこにいる! お前がもっと言うこと聞いて、わきまえてれば、俺だって外で女なんか作らなかった!」
「お前が俺を追い詰めたんだ!」
宝生知優は心底嫌悪した顔で言い返す。
「私が浮気を強制した? 私が他の女と寝て写真を撮れって命令して、それが今日ここで流れるようにした?」
理性で感情を抑え、損得を測っているだけで――彼女がこの恋に真心を注がなかったわけではない。
それなのに林原裕樹は、汚い行いをしたうえ、さらに汚物を口に突っ込んでくる。
見る目がなかった。今さら痛いほど思い知らされる。
林原裕樹は言い返せず、首を突っぱねたまま吐き捨てる。
「今日が婚約披露宴だってわかってるなら、たとえ式を中止しても、お前はもう中古だろ。鈴崎家がそんな女を欲しがるわけがない!」
宝生ミクルが追い打ちをかけるように嘲る。
「お姉ちゃん。鈴崎家は後継ぎがどうとか言われてても百年の名家だよ? 嫁げると思ってるなら、寝ぼけて夢でも見てるんじゃない?」
継母の渡島仁美も、ゆっくりと口を挟んだ。
「知優。あなたが負けず嫌いなのは昔から知っているけれど、ひとつ忠告よ。高く立てば、落ちたときは痛い。鈴崎家は、あなたが手を伸ばして届くところじゃないわ」
三人の嫌味と嘲笑を聞きながら、宝生知優は馬鹿を見る目で彼らを眺めた。
このK市で鈴崎潤を知らない者などいない。
金字塔の頂点に立つ天の寵児。少し指を動かすだけで、街全体が震えるような男だ。
だが天は才を妬んだのか、若くして不治の病と診断され、視力まで失ったと噂されている。
鈴崎の母は彼女が妊娠しやすい体質だと知り、知優が林原裕樹と付き合っていた頃から、嫁に欲しいと打診してきた。知優は断ったが。
宝生知優は口元だけを吊り上げ、ゆっくり言った。
「私のことは心配しなくていい。今日の出来事、すぐ話題になるでしょうね。……あなたたち、これから一気に有名人。ネットで燃える覚悟、できてる?」
林原裕樹が反論しようとした、そのとき――
会場の入口が開き、ひとりの男が入ってきた。
招待客がざわめき、誰かが声を上げる。
「鈴崎家の執事じゃないか……? なんでここに?」
