第3章
宝生知優は、目を覚ました瞬間、頭が割れそうな痛みに顔をしかめた。
上体を起こし、ベッドの背にもたれかかる。ぼんやりした目で見回した先にあったのは、見覚えのない内装と調度ばかり。
――ここ、私の家じゃない。
意識がはっきりしきる前に、傍らのスマホがぴこんと通知音を鳴らした。
東山嵐からのメッセージだ。
『お前の旦那、お前がバーで飲んでるとこ見てたぞ。どう言い訳するか考えとけ』
宝生知優は眉をきゅっと寄せ、そのまま通話をかけ直した。
コールは数回で繋がる。
こめかみを片手で押さえながら、酒焼けした掠れ声で問いかけた。
「昨日の夜、何があったの? 旦那に飲んでるところ見られたってどういうこと。それに、なんで私を家まで送ってくれなかったの」
東山嵐は、困ったように息をつく。
「俺だって送るつもりだったさ。でも店を出る頃には、お前もう完全に出来上がってただろ。で、俺が連れて帰ろうとしたら、鈴崎潤が『彼女は俺の妻だ。男のお前と一緒に帰すより、俺が送るのが当然だ』って。……まあ、言ってること自体は筋が通ってた」
宝生知優の目に、かすかな後ろめたさがよぎる。
そう言われると、たしかに自分が悪い気がした。
法的には、もう夫婦なのだから。
「……わかった」
通話を切ると、宝生知優はベッドを下りた。室内の造りを軽く確かめ、それから階下へ向かう。
一階のダイニングでは、鈴崎潤が朝食を取っていた。
ただ朝ごはんを食べている。それだけの光景なのに、完璧に整いすぎた顔立ちのせいで、まるで一枚の絵みたいに様になっている。
宝生知優は階段の途中で足を止め、黙って彼を見つめた。
足音に気づいたのか、鈴崎潤がふと顔を上げる。
神に選ばれたような男だった。才能も、容姿も、何もかも一級品。
深い色の瞳の奥には、人を抗えなくさせる何かが潜んでいるように見える。
――鈴崎潤って、もう目が見えないんじゃなかった?
けれど、見たところ彼の目に目立った異常はない。
「起きたか」
先に口を開いたのは鈴崎潤だった。
宝生知優は我に返り、階段を下りながら短く答える。
「うん」
向かいの席に腰を下ろしてからも、彼女はじっと鈴崎潤の目を観察し続けた。
そして、彼が瞬きをした一瞬――ようやく異変に気づく。
目尻が、うっすら白く濁っている。
鈴崎潤はテーブルに手を置き、探るような仕草でグラスを持ち上げ、牛乳をひと口飲んだ。
その動きで、宝生知優は噂が嘘ではないと確信する。
彼は本当に、見えていないのだ。
胸の奥で、そっと息をついた。
かつて誰もが羨む存在だった男が、こんなふうになってしまったのを見ると、やはり思うところはある。
昔、彼女と鈴崎潤には少しだけ接点があった。
以前、あるパーティーに招かれたときのことだ。
そこで遊び人の男に酒へ何かを盛られ、彼女は意識を失いかけた。
病院まで連れて行ってくれたのが、鈴崎潤だった。
思い返すだけで、今でも足の指がきゅっと縮こまるくらい恥ずかしい。
あのときの彼女は、まるでコアラみたいに鈴崎潤にしがみついていた。
しかも、手当たり次第に彼の服を引っ張って脱がせようとしていたのだ。
鈴崎潤は息を荒くしながら必死でそれを止め、同時に運転手へ速度を上げるよう指示していた。
病院の処置がすぐ効いてくれたおかげで、取り返しのつかない事態にはならずに済んだ。
もし鈴崎潤の身に二度もの大きな不幸が降りかかっていなければ、こんな好条件の縁談が自分のところへ回ってくるはずもなかっただろう。
宝生知優は過去から意識を引き戻し、小さな声で言った。
「……ありがとう」
そうして牛乳を手に取り、ゆっくり喉へ流し込む。
鈴崎潤はすでに朝食を終え、傍らのナプキンで口元を拭った。
「君――」
「あなた――」
声が重なる。
「先にどうぞ」
「先に言え」
またしてもぴたりと重なって、妙な沈黙が落ちた。
宝生知優は彼の白んだ目尻を見て、慌てて言い直す。
「……そっちからで」
鈴崎潤はわずかに頷き、それ以上その件に触れず、淡々と口を開いた。
「俺たちの結婚は、母の一存だ。このしばらく、宝生さんには芝居に付き合ってもらう。頃合いを見て母を説得し、君は自由にする」
宝生知優の指先が、牛乳のグラスをきゅっと握る。
やっぱり――彼はこの結婚を、相当嫌がっている。
鈴崎潤はさらに続けた。
「必要なものがあるなら言えばいい。だが、母が俺に子どもを望んでいることにつけ込んで何か企むつもりなら。あるいは鈴崎家の利益を損なうような真似をするなら、容赦はしない」
声音は冷ややかで、はっきりとした警告を孕んでいた。
宝生知優はその拒絶と距離感をまっすぐ受け止め、静かに頷く。
「安心して。そんなことはしない」
そう言ってグラスから手を離すと、彼女はふと手を伸ばし、鈴崎潤の目の前で軽く振ってみた。
次の瞬間、その手首が正確に掴まれる。
掌から伝わる熱。
長くて節のきれいな指。
――この手、ピアノとかすごく似合いそう。
そんなことを思いながら、宝生知優は思わず訊ねた。
「……もう見えないんじゃなかったの?」
視力を失えば他の感覚が鋭くなるとは聞く。
けれど、これはあまりにも正確すぎる。
鈴崎潤は薄く唇を開く。
「癌の影響で視力が落ちているだけだ。見え方がぼやけているだけで、まだ完全には失っていない」
「そうだったんだ」
答えながら、宝生知優はようやく自分の手がまだ彼の手の中にあることに気づいた。
そこからじわじわ伝わってくる体温に加えて、彼の身体から漂う深く落ち着いた木の香りまで感じ取れてしまう。
冷えた針葉樹林を思わせる、澄んだ匂い。
宝生知優は慌てて手を引き抜き、気まずそうに小さく咳払いした。
「今は医療も進んでるし……諦めなければ、きっと希望はあるよ」
慰めにしかならない言葉だと、自分でもわかっている。
鈴崎家ほどの家なら、最高の医療をいくらでも受けられるはずだ。
それでもこうなっているのなら、状況は軽くない。
鈴崎潤は指先をわずかに曲げた。
「さっき、言いかけたことがあっただろう。続きを」
宝生知優は背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「私は、自分の意思であなたに嫁いだの」
ひと息置く。
「あなたの子どもを産むつもりよ」
