第5章

どう考えても、誰かが話題の熱を押さえ込んだ。

金の力――やっぱり便利だ。

話題タグの下を片っ端から遡ってみても、あの婚約披露宴当日に出回っていた生々しいベッド写真まで、跡形もなく消えていた。

宝生知優は口元に嘲りを浮かべ、細い指で画面をすべらせ続ける。

全部読み切ったところで、大きく息を吸った。胸の奥が詰まって、気分が悪い。

そのタイミングで、スマホの着信音が鳴った。親友の野原リリからだ。

感情を整え、通話ボタンを押す。

「もしもし、リリ」

返ってきたのは、怒りで割れそうな声だった。

「林原裕樹ってクソ野郎、どこにいるの! 私が殺す!」

野原リリは起き抜けに、林原家と宝生家の婚約破談のニュースを目にして、怒りが爆発したらしい。

もともとリリは林原裕樹が気に入らなかった。知優が付き合うと言い出したときから反対していた。

あんな男が知優と婚約できただけでも、身に余る幸運だ。

なのに手に入れた途端に粗末にして、挙げ句、披露宴で浮気までした。

いちばん胸糞が悪いのは、その上で逆に噛みついてきたことだ。ネットで金を積み、でかいアカウントを買って『知優が遊んでるから破談になった』とデマを流した。

水軍どもは、ないことまででっち上げる。

その相手をリリは三百ラウンド殴り合った勢いで、今も怒鳴っているのだろう。

「手を汚すだけだよ」

宝生知優はこうなる予感があった。だが林原裕樹が、ここまで徹底的にやるとは思わなかった。

「悔しいよ……四年だよ? 四年の青春だよ」

女にとって四年は軽くない。

「大丈夫。私、損はしないから」

リリが眉をひそめる気配がした。

「そうだ、あんた鈴崎家の跡取りと結婚したんでしょ? 旦那に頼んで、澄ませてもらいなよ」

鈴崎潤なら、この程度は揉み消せる。

――その名を出されただけで、知優の脳裏にあの嫌悪の表情が浮かんだ。

「頼む? あの人、私を殺したいんじゃないかな」

「え、そんなに仲悪いの?」

「向こうは無理やり結婚させられてるだけ。私は私で、ただの利害一致だよ。迷惑かけたくないし……向こうが私を邪魔者扱いしてるのに、わざわざ火種を持ち込めない」

「ええ……新婚なのに、怨念夫婦みたいじゃん……」

知優は経緯をざっと話した。

聞き終えたリリが、思わず息を呑む。

「……胆力すご。さすが今どきの女」

「父親なしで子どもだけ作って、金も手に入るって。たしかに悪くない」

「正直、鈴崎潤って顔はいいしね。美形代だと思えば損はない」

リリが呆れたように言う。

「知優があれだけ綺麗なんだから、向こうも損してないでしょ」

そして、少し声が落ちた。

「……ただ、短命っぽいのがな」

「子どもできる前に旦那が死んだらどうするの。金も子どもも、どっちも無しだよ」

「富と危険はセットでしょ。……そのうち落とす」

知優は淡々と返す。

「で、林原裕樹の件はどうするの?」

「放っておく。吠えさせとけばいい。対策はあるから」

彼女の言う対策は、単純だった。

林原裕樹を、社会的に終わらせる。

消されたくらいで、黙って飲み込むと思ったのか。

通話を切った知優は、あのベッド写真を自分で再投稿した。グループチャットにも一斉送信し、SNSにも投下する。

すぐに、火が点いた。

林原裕樹はニュースを見て青ざめ、焦って右往左往する。

隣の宝生ミクルは涙で顔をぐしゃぐしゃにした。

「お姉ちゃん……私たちの情だって、もう残ってないの……? こんなの、私これからどうやって生きていけば……」

林原裕樹は電話をかけ続けるが、繋がらない。

上がっていく熱量に、頭が煮え立つ。

宝生知優を引き裂いてやりたい――そんな憎しみだけが膨らんでいく。

一方の宝生知優は、スマホ画面に並ぶ「成果」を眺めて満足していた。

だが同じころ、オフィスの鈴崎潤も、その件を知っていた。

秘書がスマホのニュースを読み上げ、慎重に尋ねる。

「若奥様の件、こちらで処理いたしましょうか」

「若奥様」という呼び方に、鈴崎潤の端正で、どこか病的な美貌が不機嫌に歪んだ。

母は『若奥様として丁重に扱え』と家中へ命じたが、当人は嫌悪している。

「自分で撒いた種だろ」

秘書が言葉を選びながら続ける。

「ただ、林原裕樹は厄介です。若奥様に嫌がらせを――」

鈴崎潤は鼻で笑った。

「大人なら考えて動け。鈴崎家は彼女の盾じゃない。何か起きても自業自得だ」

秘書はそれ以上、口を閉ざした。

夜。

宝生知優は風呂上がりにソファへ寝転び、天井を見つめていた。

ここに来て三日。関係は、一ミリも進んでいない。

今夜も鈴崎潤は書斎だろう。

この調子では、いつになったら子どもができるのか。

別に、あの手のことを今すぐしたいわけじゃない。

ただ――このままの速度なら、鈴崎潤が死んでも、私は妊娠できないかもしれない。

小さく息を吸い、腹を括る。

温かいミルクを用意し、書斎へ向かった。

扉は閉まっていない。

入口から、薄明かりの中で仕事に没頭する男の横顔が見えた。

「潤君」

宝生知優は柔らかく呼び、ドア枠に身を預ける。

鈴崎潤が声の方へ視線を向ける。

ぼやけた輪郭の中に、女のしなやかな姿だけが映る。

「温かいミルク、飲む?」

朝は冷たく突き放し、夜にはミルク。

その図太さが気に障ったのか、鈴崎潤は冷ややかに言い捨てた。

「……君の耐性は思っていた以上だな。面の皮が厚い」

「そう? 私ってそんなに強い?」

知優は無理に笑って、冗談めかして受け流す。

だが三秒も持たない。

「出ていけ」

「そんなに怒らないで」

知優は顔を上げる。瞳に薄い水膜が張り、声が甘く揺れた。

「潤君、今夜……一緒に寝てくれない? 一人だと怖いの」

鈴崎潤は黙ったまま、視線だけを彼女の顔に寄せる。

その媚びがどれほど作り物か、見極めるみたいに。

「その手は効かない。これ以上嫌われたくないなら、今すぐ消えろ!」

枕営業は失敗。

さすがに彼女も粘れず、引き下がるしかなかった。

部屋へ戻ると、宝生知優は空っぽのベッドを見つめて、長く息を吐く。

危ない橋を渡ること自体は怖くない。

怖いのは、渡ったまま戻れなくなることだ。

しかも鈴崎潤は、嫌がらせみたいに寝具一式をすべて書斎へ運ばせ、執事に「俺のベッドは使わせるな」と言ったらしい。

「子どもかよ」

知優は悪態をつき、布団を放り投げて潜り込む。

目を閉じた。

夜、外は土砂降りだった。

冷気が部屋へ忍び込み、彼女は何度もぶるっと震えた。

翌朝。

ぼんやり目を開けると、身体が水の塊みたいにだるい。

鈴崎潤がネクタイを取りに部屋へ入った、その瞬間。

途切れない咳が、耳に刺さった。

眉間に不快が浮かぶ。

女の咳はやけに大きく聞こえて、神経を逆撫でする。

「潤君……」

宝生知優は目尻に涙を滲ませ、かすれ声で呼び止めた。

――本当に、死にそうだった。

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