第6章

「……悪いんだけど、薬……持ってきてもらえない? 熱、出たみたい」

言い切る前に、宝生知優の喉がひくりと引き攣れ、立て続けに咳が漏れた。

鈴崎潤は返事もしない。冷えた背中を向け、そのまま部屋を出ていく。

無情なその態度が目に刺さり、知優は堪えきれず目尻を潤ませた。悔しさと委屈が混ざった涙が、ぽろりと落ちる。

数分後、使用人が救急箱を抱えて扉を開けた。その隣に、鈴崎潤が淡い表情で立っている。高く真っ直ぐな影がやけに目立った。

――この人、まだ少しは良心があるんだ。

胸がじんと温かくなった、その瞬間。

「適当に風邪薬を。ここで死なれたら困る」

冷水をぶっかけられた気分で、知優の表情が固まる。

「――……」

使用人も一瞬ぎくりとしてから、硬くうなずき、救急箱を探って粉薬を溶いた。

つんと鼻を刺す薬の匂いが立ちのぼる。知優は眉を寄せ、鼻声でこぼす。

「くさ……」

「飲め」

温度の欠片もない声。

知優は鈴崎潤の冷ややかな視線など構っていられず、鼻をつまんでカップを掴み、一気に――と思った。

だが、舌先が触れた途端。

苦みがぱっと広がり、思わず顔が歪む。

「にが……」

知優はべっと舌を出し、顎を上げて鈴崎潤を見た。期待を隠しきれない視線。

それに気づいたのか、鈴崎潤が反射的にこちらを見る。

「潤くん……飲ませてくれない?」

甘えるように語尾を揺らす。疲れた顔に薄い笑みを貼り、今にも壊れそうな空気を纏って。

鈴崎潤の顔色が、墨を落としたみたいに沈んだ。

「無理だ」

「でも、力が出ないし……これ、飲みにくい」

必死に言葉を重ねても、手応えはない。

知優は諦めたふりで肩を落とす。

「……わかった、わかった。じゃあ自分で飲む」

鼻をつまみ直して口へ運ぶが、一口飲んだだけで胸が大きく上下し、堪えきれず咳き込んだ。

「げほっ……けほっ……!」

咳の音に、鈴崎潤の眉間が険しくなる。

「うるさい」

知優は唇を噛み、むくれたようにくぐもった声を出した。

「だって……薬がまずいんだもん。ちょっとずつ飲まないと、咳出るし……」

そして、もう一押し。

「潤くん、お願い。飲ませて。潤くんが飲ませてくれたら、咳しないから」

――面倒くさい女だ。

鈴崎潤はカップを奪うように取り、スプーンで薬をすくって、知優の口元へ運んだ。

薬が喉に落ちるたび、苦しさがほんの少し引いていく。知優は唇をきゅっと結び、わざとらしく呟いた。

「潤くんに飲ませてもらう薬、ちょっとだけ美味しい」

鈴崎潤は答えず、無言のまま淡々と続ける。

しばらくして、短く言った。

「限界なら病院へ行け」

「薬で平気……」

一回風邪ひいたくらいで病院へ駆け込むほど、弱いつもりはない。

やがて薬が効いてきたのか、瞼が重くなる。知優は後ろへ下がり、布団にくるまって頭だけ出し、もごもごと呟いた。

「……ちょっと休む」

「ここを自分の家だと思ってるのか」

歯の隙間から絞り出すような声が飛ぶ。

知優にはもう言い返す力もない。目を閉じた。

次に目を開けたのは午後だった。

良くなるどころか、朝よりだるい。骨をいったんばらして組み直されたみたいに痛い。

「……みず……水、飲みたい……」

喉が締まり、声にならない。

必死で起き上がろうとして、枕元のガラス瓶を倒した。床に落ち、ぱりんと割れる音。

その音に反応したのか、ちょうど通りかかった鈴崎潤が入ってくる。

彼は状況を見きれない。けれど、女の掠れた声は聞き取れる。

「潤くん……苦しい……水……」

――厄介者。

唇が潤った瞬間、知優は生き返った気がした。

静かになったところで、知優は体温計を握りしめたまま確認する。そこに出ていたのは、見間違えようのない数字。

39.0℃。

「……そりゃ、死にそうにもなるわけだ……」

鈴崎潤が言う。

「医者はすぐ来る」

言い終えた直後、扉がノックされた。鈴崎家の専属医が入ってきて、鈴崎潤の前に立つ。

「39℃だ。午前から焼けてる。診てやれ」

医者が知優を診察し、手早く結論を出す。

「冷えからの感冒ですね。飲まれた薬が合っていません。別の薬を出します。指示通りに服用してください」

注意事項を書きつけ、医者は鈴崎潤へ慎重に言った。

「若奥様は体があまり強くありません。数日は……ご懐妊を目指す行為は控えたほうがよろしいかと」

知優は伏し目になった。言い方はどうあれ、配慮としては正しい。

「……わかった。もう下がれ」

医者が去り、短い沈黙が落ちる。

鈴崎潤はベッドの前で見下ろし、知優は上体を起こしたまま座っている。空気が妙に張りつめた。

そのとき、知優は腹を押さえた。さっき飲んだ水と薬が回り、トイレに行きたくなったのだ。

――今日一日世話になって、さらに抱えて連れてけなんて言ったら、どんな嫌味が返ってくるか。

やめよう。

知優は布団をめくり、ふらつきながらベッドを降りた。身体がきしみ、今にも崩れそうだ。

なんとか立てた――と思った瞬間、足がぐにゃりと抜けた。

そのまま真っ直ぐ鈴崎潤へ倒れ込み、二人そろって床へ転がった。

苦い薬の匂いと、男の乾いた木の香りが混ざる。

カーペットの柔らかさ。唇に触れた熱に、心臓が跳ねた。

鼻先にかかる微かな吐息。鈴崎潤の低い呻き。

気づいたときには遅い。

知優は獲物に飛びつく獣みたいな体勢のまま、鈴崎潤の唇に口づけていた。

「ち、違う! 聞いて、わざとじゃない!」

頭が真っ白になり、慌てて離れようとして――さらに手が彼の胸板を押してしまう。

――最悪。

男の目に、灼けるような火が灯る。今にも噛み砕かれそうな怒気が、知優を射抜いた。

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