第4章
パソコンの画面が隠れるほどの書類の山を前にして、知意の指先がすっと冷えた。
どう考えても、今日中に終わる分量ではない。
顔を上げると、莉奈の挑発的な視線とぶつかる。喉まで出かかった拒絶の言葉を、知意はぐっと飲み込んだ。
泣いても笑っても今日が最後だ。余計な波風を立てる必要はない。
「……承知いたしました」
莉奈は鼻で笑うと、腰を振って去っていった。
知意は深く息を吸い、イヤホンをつけ、目の前の文字の海に意識を没入させる。
時間が静かに過ぎていく。
午後二時過ぎ、ようやく最後の一件の修正を終え、データをまとめて莉奈のメールボックスへ送信した。
張り詰めていた神経がふっと緩み、強烈な空腹感が一気に押し寄せる。
キャビネットからカップ麺を取り出し、お湯を注いだ。
食べ終えて椅子に深くもたれかかり、少しだけ息をつく。
やがてまぶたが鉛のように重くなり、机に突っ伏したまま、あっという間に浅い眠りへと落ちていった。
だが、まどろんだのも束の間、同僚に揺り起こされた。社長室へ呼ばれているという。
知意の掌がきゅっと強張る。嫌な予感しかしなかった。
急いで身だしなみを整え、社長室へと急ぐ。
扉を開けた瞬間、凄まじい怒号が耳元で炸裂した。
「知意! これが提出物か」
心臓が跳ね上がり、慌てて顔を上げる。
蓮は蒼白になるほどの怒りを浮かべ、手に持った書類を握り潰さんばかりにしていた。
「脚本を直せと言ったはずだ。こんなふざけた真似をして、どういうつもりだ」
その声には露骨な嫌悪が滲んでいる。
「ただのゴミだ! ロジックは破綻、台詞は低俗、基本の構成すら出来ていない! お前はサボることと逃げることしかできないのか」
言い捨てるや否や、蓮はその書類を知意に向かって力任せに叩きつけた。
バサバサと、無数の紙片が床一面に散らばる。
知意は目を丸くして足元の紙切れを見つめ——ふと、強烈な違和感を覚えた。
これは、彼女がいつも使っている修正記号の形式ではない。
めまいを堪えてしゃがみ込み、散乱した紙を数枚拾い上げて目を走らせる。血の気が引いた。
——違う。これは、彼女が直した版ではない。
人物の動機はズレており、展開は支離滅裂。まるで誰かがわざと元の脚本をぐちゃぐちゃに書き換えて提出したかのようだ。
知意は顔を上げ、持参した分厚い青のファイルを両手で差し出した。
「こちらが私の修正した脚本です。修正箇所はすべて注記してあります。今お持ちのものは、私が作ったものではありません」
その瞳は澄んでいた。せめて一度、確認してほしいと願いながら。
蓮の視線が分厚いファイルへ落ち、そして知意の青白くも頑なな顔へと戻る。
「今さら、まだ言い逃れをする気か」
鼻で笑い、蓮は差し出されたファイルを思い切り払いのけた。
パァン!
手から弾き飛ばされたファイルが横のスチール棚に激突し、中身が派手に散乱する。
知意は両手を差し出した姿勢のまま固まった。指先が痺れている。
彼は一瞥すらくれない。真偽を確かめる気など毛頭ないのだ。
知意は震える唇を開き、かすれた声で零した。
「私は……」
「黙れ」
蓮が冷酷に遮り、見下ろすように睨みつける。
「お前の言葉など、一言たりとも聞きたくない」
知意はゆっくりと腕を下ろし、再び床へしゃがみ込んだ。
その時、柔らかな声が息苦しい空気を割った。
「蓮さん、どうしたの? そんなに怒らないで」
いつの間にか近づいてきた清香が、蓮の袖をそっと引き、上目遣いで彼を見つめる。
蓮が纏っていた凍てつくような殺気が、彼女を見た瞬間、目に見えて和らいだ。
知意の手がきゅっと握り込まれ、胸の奥にまた細かな痛みが走る。
「こちらの方は、いったん外へ」
清香が知意へ向き直り、優しく言う。
「ここは私が片づけますから」
知意は動かなかった。
床に散らばった自分の血と汗の結晶を見つめる。滑稽なほどに敷き詰められた文字の群れ。
「……妊娠されている方?」
清香がもう一度呼びかける。その声には少しばかり困惑が混じっていた。
知意はようやく我に返る。
机の縁に手をつき、苦労しながらゆっくりと立ち上がった。
「……わかりました」
掠れた声で短く応じる。消え入りそうな音だった。
そして腰を押え、散らばった紙を避けながら、一歩ずつ出口へと向かう。その背中はひどく頼りなく揺れていた。
知意の姿が廊下の角に消えるのを見届けてから、清香は視線を戻し、小さく息を吐いてしゃがみ込んだ。
「蓮さん、先にお仕事に戻って。ここは私が片づけるから」
顔を上げ、蓮を宥めるように微笑む。
蓮は彼女を見つめ、その硬い輪郭をさらに緩ませた。
「悪かったな、清香」
「ううん、平気」
清香は首を横に振り、再び手を動かし始めた。
散らばった紙を拾い集めながら、内容を素早く流し読む。大半は凡庸で退屈な文章だ。内心では鼻で笑いつつも、顔には一切出さない。
ふと、彼女の手が止まった。
何枚かの目立たない紙の下に、クリップで留められた短い脚本の断片が挟まっていたのだ。
人物の背景は繊細に練り込まれ、展開の転換は巧妙で緊迫感がある。台詞は簡潔でありながらも的確に胸を刺す。行間から滲み出る圧倒的なセンスは、周囲の駄稿とは明らかに次元が違った。
署名欄は空白。ただ右上に、ひらりとした小さな魚のマークが一つ描かれているだけだ。
清香の瞳が鋭く光った。
これがただの原稿ではないと即座に見抜いた。まだ誰にも発掘されていない、凄まじい原石の気配を感じる。
彼女は何食わぬ顔でその断片を抜き取ると、自分の持っていたファイルに滑り込ませ、手持ちの資料に紛れ込ませた。
残りの紙はすべて、別の透明なクリアファイルへと綺麗にまとめる。
すべてを終えてから立ち上がり、手についた見えない埃を払う仕草をして、蓮のそばへ歩み寄った。
「蓮さん。さっきの方……大変そうだった。お腹が大きいのに働いていて。体調が悪かったのかも。だからミスが出たのかもね……あまり責めないであげて?」
甘く柔らかな声だった。
蓮は眉を寄せ、清香を見る目に深い憐れみを宿らせた。
「お前は優しすぎる」
そう口にしながら、知意がかつて清香に仕掛けた数々の悪行が脳裏をよぎり、瞳の色を暗く沈ませる。
清香はうなじを伏せ、か弱さを演出するように声をさらに落とした。
「顔色がすごく悪かったから。万が一……赤ちゃんに障ったら可哀想だし。この資料……」
手に持った透明なクリアファイルを軽く掲げてみせる。
「私が後で本人に渡して、ちゃんと話してみる。だから、蓮さんはもう怒らないで?」
あの悪辣な女のために、恐る恐る庇うような口を利く清香を見て、蓮の知意に対する嫌悪感はいっそう深まった。
対比が鮮烈すぎる。天使のように清らかな者と、心が汚れきって本職すらまともにこなせない者。
「好きにしろ」
蓮は冷え切った声で言い、もはや書類の束を見ようともしなかった。
「ただし、仕事は仕事だ。次はない」
「うん、蓮さんが公私混同しないのは分かってる」
清香は甘く微笑み、絶妙な塩梅で持ち上げる。
「じゃあ、さっきの妊婦さんのところへ行ってくるね」
二つのファイルを胸に抱き、彼女は足取りも軽く振り返ると、知意が消えた方向へと歩き出した。
