第8章

そう言いながらも、彼女は密かに掌を握りしめていた。

蓮には愛していない妻がいると、以前から耳にしていた。卑劣な手段で嫁いできたため、蓮は彼女をひどく嫌悪しており、夫婦関係は名ばかりなのだと。

噂によれば、その女は容姿も平凡で、性格も可愛げがないらしい。

清香はそのことがずっと不満だった。そんな平凡な女が蓮に釣り合うはずがない。彼女こそが自分が「神谷の奥様」の座に就くための最大の障害であり、どうにかしてその座を奪い取ってやろうと常に考えていた。

これまでにも何度か罠を仕掛け、自らボロを出して去るよう仕向けてきたが、どれも思い通りにはいかなかった。

いまだ顔を合わせたことのないその「神谷の奥様」に対し、清香は強い対抗心を燃やしていた。

「挨拶? やめとけって!」

皓が鼻で笑う。

「あのブス、昨日会社でろくでもないことして兄貴を怒らせてさ。昨夜、裏の地下の檻の掃除を命じられたんだよ。今頃まだあの中で蛇と格闘してんじゃね?」

清香の胸が跳ね、すぐさま快感が込み上げた。

やはり蓮は、あの妻に対して微塵も情を抱いていないようだ。

だが表面上は、絶妙な同情を浮かべてみせる。

「地下の檻って……すごく怖いところじゃないの? 奥様は……その、女の子なのに、大丈夫なのかな」

「清香さんは優しすぎなんだよ!」

皓は意にも介さない。

「あんな女、少し痛い目を見たってどうってことないさ。兄貴が追い出さないだけありがたいと思えっての! ほら、あんなの放っておいて、うちを案内するよ」

清香は頷き、善良な瞳を向ける。

「うん、じゃあお願いね、皓くん」

清香は皓の後について屋敷を見て回った。その途中、皓がトイレへと向かった。彼の背中を見送った瞬間、清香の目つきが鋭く冷酷なものに変わる。

彼女は先ほど通り過ぎた地下の檻へと足早に向かい、音を立てずに近づいた。

中からは微かな水音と、途切れ途切れの嗚咽が漏れ聞こえ、背筋がぞわりとする。

どうやら罰はまだ終わっておらず、見張りの者もいないらしい。

刹那、彼女の瞳に躊躇のない狠さが閃いた。

周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、ハンカチ越しにそっとドアノブを握る。カチリ、という小さな音とともに、古い差し込み錠がしっかりと噛み合った。

内側から、完全に閉じ込めたのだ。

清香は二歩下がり、閉ざされた鉄扉を見て口元を吊り上げた。

優雅にスカートの裾を整え、ハンカチをしまう。再び非の打ち所のない温和な微笑を顔に貼り付けると、踵を返し、足取りも軽く元来た道を戻ってリビングへと向かった。

リビングでは、ビデオ会議を終えた蓮が階段を下りてきたところだった。清香はすでにソファに腰を下ろし、使用人が淹れたばかりの花茶を手に、優雅に待っていた。

「蓮」

彼の姿を認めるなり、清香はすぐにティーカップを置き、立ち上がって甘く柔らかな笑みを咲かせた。

「お仕事の邪魔してない? 脚本の直し方、少し整理できたから意見を聞きたくて」

蓮は軽く頷き、向かいのソファに座る。

清香の纏う清潔で無垢な気配は、確かに彼の張り詰めた神経をわずかに緩めてくれる。

手渡された資料からは微かな香りが漂い、字は美しく整っている。内容も、昨夜一読した時より確実に洗練されていた。

清香には確かに脚本家としての才があると、認めざるを得なかった。

そのとき、清香のスマートフォンが鳴った。

画面の着信表示を見た瞬間、彼女の目がぱっと明るくなり、隠しきれない甘えが顔に浮かぶ。

蓮へ謝るように微笑みかけ、通話に出た。

「もしもし? お兄ちゃん!」

電話の向こうから、若い男の朗らかな笑い声が聞こえてきた。

「清香、着いたぞ。今電源入れた。会いたかったか?」

「もちろん! 今回のお兄ちゃんの出張、すごく長かったんだもん」

清香の声は蜜が滴るほど甘く、たっぷりと甘える響きを帯びていた。

「いつ着くの?」

「もう向かってる。あと三十分くらいだな。どうした、俺の可愛いお姫様はお腹が空いたか?」

男の口調はどこまでも甘やかだった。

「違うよ、早く会いたいだけ。じゃあ急いでね、気をつけて」

清香はさらにいくつか甘い言葉を交わしてから、名残惜しそうに通話を切った。

蓮へと向き直り、晴れやかに微笑む。

「蓮、兄がもうすぐ来るの。あなたに会いたいって言ってたわ」

蓮は「ああ」とだけ短く応えた。

橘家の長男である橘清隆は、確かな能力を持ち、妹の清香をこの上なく溺愛している。

以前から繋がりを持ちたいと考えていたが、今日ようやくその機会が巡ってきたのだ。

その頃、地下の檻の中。

恐怖が波のように知意の神経を叩き続ける。薄暗い光の中、蛇たちが舌を出し、動くたびに全身の鳥肌が立った。

清掃道具を握る手は激しく震え、涙はとうに枯れ果て、身体は止まらず戦慄している。

突然、棚に静かに巻き付いていた一匹の蛇が弾けるように飛び出し、彼女の足首へと襲いかかった。

「きゃああっ——!」

知意は本能的に後ろへ跳ね退いた。蛇は狙いを外し、足元から少し離れた床に落ちると、鎌首をもたげ、氷のような縦長の瞳で彼女をねめつけた。

逃げなきゃ。ここから出ないと!

彼女は「綺麗に掃除しろ」という命令など投げ捨て、踵を返して扉へと駆け出した。

震える指でドアノブを掴み、力任せに回す。だが、扉はびくともしない。

狂ったように分厚い鉄扉を引き、叩きつける。

「開けて! 出して! 助けて! お願い、開けて!」

何の返事もない。

鉄扉に背を押し付けたまま、あの蛇がじりじりとこちらへ這い寄ってくるのをただ見つめるしかなかった。

だめ……死ねない……お腹の子が……。

視線を必死に這わせ、隅に積まれた古い木屑の山に目を留めた。

ライターだ。さっき工具棚に古いライターが置かれているのを見たはず。

知意は最後の力を振り絞って飛び込み、ライターを掴み取ると、布切れをいくつか引きちぎった。

カチ、カチ……火花が散り、ようやく小さな炎が立ち上がった。

彼女は火のついた布を、迫り来る蛇の群れへ向けて力いっぱい投げつけた。

「シューッ!」

炎に怯えた蛇たちは素早く退き、より深い隅へと逃げていく。

ようやく息をついたが、安堵する間もなかった。

燃える布が、周囲の可燃物へと次々に燃え移ったのだ。

火の手は瞬く間に高く上がり、猛烈な勢いで広がっていく。

濃い煙が立ち昇り、刺激臭が狭い空間を満たし始めた。

「げほっ、ごほっ……」

知意は煙にひどくむせ返り、肺が焼けるように痛んだ。

もがきながら扉へ向かおうとしたが、火の回りが早すぎた。あっという間に退路が塞がれてしまう。

熱波が肌を焼き、空気はどんどん薄くなっていく。

反対側から回り込もうとしたが、足元に散乱していた物に躓いた。

倒れ込んだその瞬間——傍らの木棚が轟音とともに崩れ落ちた。

「——っ!」

重い木棚が容赦なく直撃し、彼女の小腿を押し潰した。

骨が砕けたかと思うほどの激痛が走る。知意は悲鳴を上げ、完全に身動きが取れなくなった。

火勢はさらに増し、黒煙が渦を巻き、視界が急速に滲んでいく。

窒息感が彼女を飲み込み、意識が潮のように引いていく。

——赤ちゃん……ごめんね……ママ、もう……。

完全なる闇に呑み込まれそうになった、その最後の瞬間——。

バンッ!!!

鼓膜を打つ轟音。あの固く閉ざされていた鉄扉が、外から蹴り破られたのだ。

眩い外光が部屋へと流れ込み、知意の小さく丸まった身体を照らし出す。

その音に意識を僅かに引き戻され、知意は最後の力を振り絞り、刺すように痛む瞼をどうにか持ち上げた。

肌を焼く炎の逆光の中、高く冷峻な影が闇を切り裂いて現れた。まるで神が降臨したかのように。

引き締まった蓮の顎のラインが視界に映る。いつも淡泊で冷ややかだったその瞳が、今は見たこともないほどの驚きと怒りに激しく揺れ動いていた。

視線がぶつかった瞬間、知意の瞳の奥、死の灰の底で、ふっと微弱な光が跳ねた。

——どうして、彼が……?

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