第5章

盛岡晃の胸の内に、理由のわからない苛立ちが膨れ上がる。声はいっそう冷たく、強引になった。

「言っておくが、辞職は認めない。離婚なんて、なおさらだ」

わずかに間を置き、彼は身を乗り出して彼女を見下ろす。一語一語に、有無を言わせぬ圧がこもっていた。

「この先一生、おまえは盛岡家を離れられない」

その言葉を聞けば、彼女は昔のように、委屈した顔をするか、あるいは素直に従うだろう。

彼はそう思っていた。

だが浅沢瑶は、ただ目を上げて、ほんの一瞬だけ彼を見た。

かつて星の光を満たしていたその瞳に、今あるのは死んだような静寂だけ。

反論のひと言すら惜しいと言わんばかりの沈黙だった。

完全な無視。

それはどんな口論よりも、盛岡晃の神経を逆撫でした。

そのとき、胃の奥をねじ切るような痛みが不意に走る。

浅沢瑶の顔色は見る間にさらに白くなり、額には細かな汗がにじんだ。反射的に手で胃を押さえる指先が、小さく震える。

そのわずかな仕草を、傍にいた宇佐美萌は見逃さなかった。

彼女はすぐに立ち上がり、心配そうな顔で盛岡晃のそばへ寄ると、そっと袖を引いた。

「晃、そんなにきつく言わないで。見て、瑶、顔色が本当に悪いわ。具合が悪いんじゃない? もう怒らないで、ちゃんと話してあげて」

なだめるようでいて、その実、一言一言が火に油を注いでいる。

病気を装って同情を引こうとしている。

そんな含みが透けて見えた。

案の定、盛岡晃は浅沢瑶を一瞥した。顔色は紙のように白い。だがその目に浮かんだのは心配ではなく、ますます濃くなる苛立ちと嫌悪だった。

彼は鼻で笑い、宇佐美萌にはいくらか和らいだ声で言う。

「行こう。放っておけ」

そうして宇佐美萌の腰を抱き寄せ、そのまま振り返りもせず社長室を出ていった。まるで後ろにいる浅沢瑶など、家具と同じくらいどうでもいいものだと言わんばかりに。

彼女の横を通り過ぎる際にも足は止まらない。ただひと言、冷たく投げ捨てる。

「秘書に送らせる」

ドアが閉まる。

世界は一気に静まり返った。

浅沢瑶は力が抜けたようにソファへ崩れ落ちる。胃の痛みは津波みたいに押し寄せ、体を丸めずにはいられないほどだった。

わかっている。

盛岡晃の秘書が迎えに来ることはない。

この会社で、もうすぐ辞めるうえに盛岡社長の覚えもめでたくない総部長のために、媚びを売る機会を棒に振る人間などいるはずがなかった。

彼女は誰もいない部屋で長いことひとり座り込んでいた。

痛みがほんの少しだけ引いた頃、やっと壁に手をつき、ふらつく足取りでエレベーターへ向かう。

地下駐車場は広く、寒々しい。

自分の車のそばまで来たところで視界が急に暗くなり、激しい眩暈が襲った。車のドアに手をついて、どうにか立っているのがやっと。

そのとき、一台の車が彼女の横で停まった。

窓が下がり、遠藤毅の焦りに満ちた顔が覗く。

「浅沢瑶? どうしたんだ」

彼は彼女の顔色が紙のように白いのを見るなり、シートベルトを外して車を飛び出した。

「大丈夫……です」

そこまで言ったところで、浅沢瑶の体から力が抜ける。

遠藤毅は咄嗟に駆け寄り、倒れかけた彼女を横抱きにした。抱き上げた感触は驚くほど軽く、骨ばっていて痛々しい。

胸の奥がきゅっと縮む。怒りと痛ましさが一緒くたにこみ上げた。

「何が大丈夫だ。この状態でどこへ行くつもりだった!」

彼は彼女を抱えたまま、大股で自分の車へ向かう。

そのちょうど同じ瞬間、駐車場の出口から一台の黒いベントレー・ミュルザンヌがゆっくり走り出していた。

後部座席の盛岡晃が、何気なく窓の外へ目をやる。

そこに映ったのは、ひとりの男にきつく抱きかかえられ、その胸元へぐったりと身を預ける浅沢瑶の姿だった。

あまりにも親密なその光景に、彼の瞳孔が一気に縮む。

スマホを握る指に力がこもり、白くなる。車内の空気は一瞬で凍りついた。

――なるほど。

――よくやる。

さっきまで自分に拗ねた顔で辞職だの離婚だの言っていたかと思えば、次の瞬間には、もう別の男の腕の中か。


翌日。盛岡家本家での家族の食事会。

浅沢瑶は、無理にでも体を起こしてやって来た。

これが、盛岡家の若奥様として祖母と食卓を囲む最後になると、わかっていたからだ。

玄関に姿を見せると、リビングでは盛岡晃が老夫人と話していた。

彼は浅沢瑶を見るなり、隠そうともしない嘲りを目に宿す。

「拗ねるのもいい加減にしろ。仕事まで放り出して、そのまま姿を消すとはどういうつもりだ」

昨日の一連の行動も、すべて子供じみた駆け引き。気を引くための小細工。

そう決めつけている口ぶりだった。

浅沢瑶は穏やかな顔のまま、相手にしない。

そのまままっすぐ盛岡キヨのそばへ行き、甘えるように腕へしがみつく。

「お祖母さま、ただいま戻りました」

「戻ってきてくれればそれでいいよ、いいよ」

盛岡キヨは彼女の手をいたわるように叩いてから、きっと盛岡晃を睨みつけた。

「おまえは嫁に向かって何て口の利き方をするんだい! 瑶が何をしたっていうんだ。そんな嫌味ったらしく当てこすって! 外の泥棒猫どもにたぶらかされて、本当に頭がおかしくなったんじゃないのかい!」

叱りつけられた盛岡晃の顔が、すっと険しく沈む。

だが老夫人の前では、さすがに露骨に逆らえず、冷えた顔のまま脇へ腰を下ろした。

食事は終始、水面下の火花を孕んでいた。

食後になると、老夫人は有無を言わせず二人を引き留める。

「今夜は二人とも帰しませんよ。ここへ泊まりなさい。ちゃんと話し合うんだよ!」

老夫人の好意を断れるはずもなく、浅沢瑶は客間へ通された。

一方の盛岡晃は、機嫌の悪い顔のまま書斎へ消える。

夜も更け、すべてが寝静まった頃。

浅沢瑶はベッドに横たわっていたが、胃の奥の鈍い痛みのせいでまるで眠れなかった。

枕元のスマホが、不意にぶるっと震える。

画面に表示されたのは――遠藤医師。

手を伸ばすより早く、書斎のドアが開き、盛岡晃が険しい顔で入ってきた。

彼の視線は、点灯したスマホの画面に留まる。

遠藤医師。

前に駐車場で彼女を抱きかかえていた、あの男か。

正体のわからない怒りが一気に頭へ突き抜けた。盛岡晃は大股で近づき、浅沢瑶が反応する間もなくスマホを奪い取る。そして、そのまま通話を拒否した。

電話の向こうでは、遠藤毅が胸を高鳴らせていた。

海外の恩師に連絡を取り、新しい分子標的薬が臨床的に非常に良い効果を上げていると聞いたのだ。もしかしたら彼女に、一筋の生機をもたらせるかもしれない。

その報せを伝えたかった。

だが通話は、あっけなく切られた。

盛岡晃は険しい顔のまま、素早く画面を操作する。遠藤毅の番号を見つけ出すと、ためらいもなくブラックリストへ放り込んだ。

すべて終えると、ゴミでも放るようにスマホをベッドサイドへ投げ返す。

浅沢瑶は怒りと焦りで胸が詰まった。けれど弱りきった体では、起き上がる力さえほとんどない。

そんな彼女の青白い顔を見つめながら、盛岡晃の胸の苛立ちはなぜか収まらない。

もう彼とこれ以上関わりたくなかった。

浅沢瑶は無理に身を起こし、布団を抱えて客間を出る。そのままリビングのソファへ移動し、小さく体を丸めた。

ソファは狭くて硬い。もともと体調が悪いのもあって、何度寝返りを打っても眠れない。胃の差し込むような痛みに、眉間の皺は深くなるばかり。

どれほど時間が経っただろう。

不意に、頭上に影が落ちた。

いつの間に来たのか、盛岡晃がソファの前に立っている。

小さく丸まった彼女が、眠れず苦しそうに身じろぎする姿を見下ろし、彼の眉がきつく寄った。

何に突き動かされたのか。

彼はふいに腰をかがめ、膝裏と背中に腕を回すと、そのまま彼女をひょいと抱き上げた。

体が突然ふわりと浮き、浅沢瑶は小さく息を呑んで目を開く。

見上げた先にあったのは、底の見えない、複雑で読み取れない盛岡晃の瞳だった。

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