第8章
浅沢瑶は、その場で凍りついた。
冷たい嘲弄を含んだその声は、すでに穴だらけになった彼女の心臓へ、鋼の針のように正確に突き刺さった。
彼女は振り返ることさえしなかった。ただ伏し目がちに、背後の人間など空気であるかのように、感情のない平坦な声でアシスタントへ指示を出し続ける。
盛岡晃は苛立ちを募らせた。この女は、自分を無視するつもりか。
傍らにいた宇佐美萌はそれに気づき、慌てて彼に腕を絡ませ、甘い声で和解の役を演じ始めた。
「晃、そんな言い方しないで。瑶だって仕事をしてるんだし。見て、あんなに顔色が悪いんだもの、きっと疲れきってるのよ。もう怒らないであげて」
一見すると気遣いに満ちた言葉。だがその実、浅沢瑶のプロフェッショナルな仕事ぶりを、拗ねたあとの罪滅ぼし程度に矮小化している。
浅沢瑶は聞かなかったことにした。手際よくすべての手配を終えると、そこでようやく振り返り、盛岡晃越しにその後ろの宇佐美萌を見た。
「宇佐美さん」
彼女の顔には、広報総部長としての標準的な笑みが張り付いている。よそよそしく、礼儀正しく。
「外の記者には対応済みです。これ以上の騒ぎを避けるため、地下駐車場から車でお送りします」
盛岡晃は、その平坦すぎるほど冷めた顔を見つめ、胸の奥でくすぶる無名火をさらに燃え上がらせた。
公私を完全に切り分けた、その付け入る隙のない態度は、どんなヒステリックな口論よりも彼の神経を逆撫でする。
彼は冷たく鼻を鳴らし、宇佐美萌の腰を抱いてそのまま背を向けた。余計な視線をくれてやる価値もないとでも言うように。
宇佐美萌は彼に引かれて数歩歩いたところで、また振り返った。勝者特有の微笑を浮かべ、浅沢瑶へ何か言葉を投げようとする。
だが彼女が口を開く前に、浅沢瑶は隣のアシスタントへ軽く顎を引いた。
「新谷、宇佐美さんを車まで」
その物言いは、まるで取るに足らない相手を事務的に処理しているだけだった。
宇佐美萌の笑みが一瞬だけ固まる。結局、彼女は不満を隠したまま、盛岡晃の足取りについていくしかなかった。
危機現場の喧騒が、人の波とともに徐々に薄れていく。
アドレナリンで無理やり保っていた高揚感が切れた途端、押し寄せてきたのは、山のような疲労と痛みだった。
――芝居はもう気が済んだか。
盛岡晃のその言葉が、呪いのように何度も脳内で反響する。
そうだ。彼女はずっと、演じてきた。
平気なふりをして。強いふりをして。そして……まだ長く生きられるふりまでして。
胃の奥をえぐるような鋭い痛みが走る。今までのどの発作よりも、強烈だった。
冷や汗が一気に背中を濡らし、視界は何度も暗転する。壁に手をつかなければ、立っていられない。
病状がまた悪化している。それはもう、嫌というほどわかった。
どうにか自分のオフィスへ戻ると、彼女は内側から鍵をかけた。バッグのいちばん奥、誰にも見つからないよう隠してある仕切りから、震える指で小さな白い薬瓶を取り出す。
ラベルはない。ただ白い錠剤が数粒入っているだけ。
海外から人づてに手に入れた、強力な鎮痛薬。副作用は激しく、遠藤毅からは絶対に飲むなと厳しく止められていた。体の機能低下を早めるだけだと。
でも、もう構っていられない。
死ぬことよりも、この終わりの見えない痛みのほうがよほど恐ろしかった。
彼女は水を用意する余裕さえなく、そのまま錠剤を二粒、喉へ押し込む。舌の奥に苦味が広がる。まるで今の人生そのものみたいに。
薬はすぐに効き始めた。劇痛は無理やり押さえつけられたが、その代わりに強い吐き気と眩暈が押し寄せる。
彼女は机に突っ伏し、陸に上げられた魚のように大きく息を吸っては吐いた。いちばんひどい副作用が過ぎるまで、ただじっとやり過ごすしかない。
翌日、浅沢瑶は病院へ行った。
禁じられた薬を飲んだことは遠藤毅に言わない。ただ定期検査だと言ってごまかす。結果を待つあいだ、彼女は一人で病院の庭へ出た。
初秋の日差しが、木漏れ日になって地面へ落ちている。風には少しだけ冷たさが混じっていた。浅沢瑶はベンチに腰を下ろす。青白い顔には血の気がまったくない。
少し離れた場所に立つ、見覚えのある背の高い姿が目に入り、心臓がぎゅっと縮む。
盛岡晃。
彼は彼女に背を向けたまま、電話をしていた。大きな声ではない。それでも、はっきり耳に届いてしまう。
「……あいつは昔からそうだ。いつも同情を買うために同じ手を使う。高校の時の件、覚えてるか? いじめられたとか言って泣きついてきた。俺は胃穿孔で入院中だったのに、すぐ学校まで行ったんだぞ。でも今思えば、あれだって大げさに言って、俺の気を引きたかっただけだろうな」
浅沢瑶の全身の血が、その瞬間に凍りついた。
それは、彼女にとって青春時代でいちばん暗い記憶だった。同級生にトイレへ閉じ込められ、冷水を浴びせられ、教科書をずたずたに裂かれた日々。
あの泥沼から、少年だった盛岡晃は神様みたいに現れて、彼女を引き上げてくれた。
彼女の記憶の中で、彼がいちばん必死になって守ってくれた出来事。
なのに今、彼女のいないところでは、そんなふうに。軽々しく、皮肉を含んだ声で、彼女の傷跡も、彼自身の必死さも、まとめて「同情を引くための茶番」だと定義してしまう。
思い出まで、嘘だったのだ。
自分が救いだと思っていたものは、彼にとっては利用された面倒事でしかなかった。
冷たい手で心臓を握りつぶされ、その破片まで砕き散らされたような痛み。
苦さが胸の奥から喉元までせり上がり、吐き気に変わる。
もうこれ以上、この場所にはいられなかった。彼女はよろめきながら立ち上がり、この息苦しさから逃げようとする。
足元の枯れ枝を踏んだ。
――ぱきっ。
小さな音。それに反応して、電話中の盛岡晃が鋭く振り返る。まっすぐ突き刺さる視線。
彼女だと認識した瞬間、彼の目にかすかな驚きがよぎる。けれど次の瞬間には、その色は濃い嫌悪と冷たさに変わっていた。
彼はただ無感情に彼女を一瞥しただけで、また顔を戻し、何事もなかったかのように通話を続ける。まるで彼女がただの目障りな通行人であるかのように。
無視。それはどんな刃物よりも、人を深く傷つける武器だ。
浅沢瑶は自嘲気味に口元を歪め、重い足を引きずって背を向けた。
二歩歩いたところで、外来棟から出てきた女と正面からぶつかりそうになる。
宇佐美萌だった。
彼女は浅沢瑶を見ると、少し驚いたような顔をして、すぐいつもの優しく穏やかな微笑を作る。
「瑶? こんなところで会うなんて偶然ね。あなたも病院? どこか具合でも悪いの?」
今の浅沢瑶には、取り繕う力すら残っていなかった。そのまま脇を抜けようとして、ふと、宇佐美萌が胸元に抱えている報告書へ目が落ちる。
そこに印字されていたのは、くっきりと、残酷なくらい鮮明な文字。
妊婦健診報告書。
その文字が、赤く焼けた鉄みたいに視界へ焼きついた。
世界が一瞬、止まる。すべての音が消え、残ったのは自分の鼓動がどんどん速くなる音と、頭へ血が昇る轟きだけ。
妊娠……?
宇佐美萌が、盛岡晃の子を?
そうか。難解なパズルのピースがすべてはまった。
だから彼はあの指輪を彼女に渡したのか。だからあれほど彼女を庇い、守り、そして……自分の昔の傷さえ、同情を買うための茶番として切り捨てたのか。
愛する女と、これから生まれてくる子供のために、あらゆる障害を片づけるために。
そして浅沢瑶こそが、その中でいちばん余計で、いちばん目障りな障害物だったのだ。
抗癌剤治療がいちばん痛いわけじゃなかった。彼に嫌われることすら、いちばん痛いわけじゃなかった。
いちばん痛いのは、宝物みたいに大事に抱えてきた思い出まで、彼自身の手でずたずたに引き裂かれ、それが全部、自分の一人芝居だったと証明されること。
救いだと思っていたものは、ただの気まぐれ。
深い情だと思っていたものは、彼にとっては場違いな厄介事。
心が、完全に死んだ。
