第1章
手術準備室のベッドに横たわると、看護師たちが術前の準備を進めていく。
執刀医であり、私の夫でもある松尾修は、最後の術前作業をチェックしている。
麻酔科医が私に麻酔薬を注射しようとした、ちょうどその時、松尾修のスマートフォンが突然震えた。彼は眉をひそめて一瞥し、通話を切る。しかし十秒も経たないうちに、スマートフォンは再び震え始めた。今度は少し躊躇してから、彼は隅へ移動して電話に出た。
彼の背中が徐々に強張っていき、指が強く電話を握りしめているのが見えた。
振り返った彼の顔には、今まで見たこともないほど狼狽した表情が浮かんでいた。
「この手術はできなくなった。すぐに村上先生に連絡して、代わってもらってくれ」
松尾修の声は震えていた。彼は私を一瞥すらせず、手袋と手術着を脱ぎ始めた。
「修、何があったの?」
私は身を起こそうとしながら尋ねた。心臓が早鐘を打っている。
彼はようやく私に視線を向けた。その目には一瞬罪悪感がよぎったが、すぐに不安に取って代わられた。
「緊急事態だ。今すぐ行かなきゃならない」
私は一拍置いて、尋ねた。「私の手術はどうなるの?」
「村上がうまくやってくれる。彼は最高の外科医の一人だ」
松尾修はそう早口に答えると、すでにドアのところまで歩いていた。
すぐに村上誠先生が駆けつけ、慌ただしく立ち去る松尾修とすれ違った。
二人は言葉を交わす。
「美緒の手術、頼んだ」
「お前、このタイミングで抜けるのか?」
「今行かなければ、一生後悔するかもしれない」
私は目を閉じた。涙が音もなく頬を伝っていくのを感じた。
村上誠は消毒された手術着を身にまとい、手術台の前に立った。
彼は私の涙に気づき、低い声で言った。
「何を泣いている。俺がいるんだ、心配ない」
手術は二時間続いた。病室で目を覚ました時、村上誠はまだ私のベッドのそばにいて、真剣な面持ちでモニターをチェックしていた。
麻酔が切れ始めると、腹部の傷が激しく痛み出し、冷や汗が病衣をじっとりと濡らした。
私のスマートフォンが鳴った。
やっとの思いで手を伸ばして取ると、画面には松尾修の名前が表示されている。
「美緒? 私、椎名由衣」
電話の向こうから女性の声が聞こえた。その声色には申し訳なさが滲んでいるようで、それでいてどこか微かな得意気な響きも隠されていた。
「修、今ここにいるの。本当にごめんなさいね、私がステージで転んじゃったせいで、彼、慌てちゃって」
私ははっとした。松尾修が私の手術を放り出したのは、椎名由衣の元へ駆けつけるためだったのだ。
彼が話していた大学時代の恋人で、最近名を馳せている舞台女優。
「もう三十過ぎてるのに、こんなに無鉄砲なんだから!」
彼女は私の夫を叱り始めた。
「抹茶ラテが一杯残ってるから、美緒へのお詫びに持って行ってあげて」
電話の向こうで松尾修が受話器を受け取る音が聞こえた。
「彼女は手術を終えたばかりだ。そんなものは飲めない。これは君のために買ったんだから、君が飲みなさい」
その言葉が、とどめの一撃となった。
それから、別の困惑した声が聞こえてくる。おそらく松尾修の友人だろう。
「俺はただ、公演中の事故を知らせただけで、手術を放り出して駆けつけろなんて言ってないぞ」
私は電話を切った。傷の痛みが急に耐え難いものになり、胸に巨大な石を乗せられたかのように呼吸が苦しくなる。
医者に痛み止めを頼もうかと思ったが、ふと、この痛みを覚えておくべきだと考え直した。
痛みを覚えておけば、次はもう傷つけられることはないだろう。
しばらくして、一人の看護師が薬と水を持って病室に入ってきた。
「村上先生からの痛み止めです。きっと必要になるだろうと」
彼女は穏やかに言った。
「これを飲んで、早くお休みください」
私は錠剤を受け取ると、そばに置いた。
