第3章
私と松尾修の結婚は、傍から見れば完璧なものだった。
私たちはお見合いで出会った。彼は総合病院の医長、私は出版社の文芸編集者。互いに家柄は釣り合い、生活も安定している。
半年ほど付き合ったが、デートの時間はそれほど多くなかった。お互いの仕事が忙しく、週に二度会えれば上出来というほどだったからだ。その半年の付き合いの中で、私も少なからず心を動かされた。彼は確かに落ち着いていて頼りになり、一緒にいるととても安心できた。
けれど、私が彼との結婚を本当に決めたのは、ある雨の夜のことだった。
その晩、私は一人で家路を歩いていた。すると突然、酔っ払った男に絡まれ、酒の匂いを撒き散らしながら罵倒されたのだ。慌てて松尾修に電話をかけると、彼は二つ返事で雨の中を駆けつけてくれた。
酔漢が私を突き飛ばそうとした時、松尾修はさっと私を背後にかばい、男ともみ合いになった。
彼が家まで送ってくれた時、そっと私を慰めてくれた。
「怖がらなくていい、美緒。僕がずっと君を守るから」
その瞬間、私は一生の拠り所を見つけたと感じた。だから、その後の彼のプロポーズを、私はすぐに受け入れたのだ。
しかし今、退院して三日目にして、その幻想は完全に打ち砕かれた。
出版社のデスクで小説の原稿を校閲していた私は、何気なくLINEの画面を更新した。
椎名由衣の投稿が目に飛び込んでくる。
「途中で置き去りにした代償は、医長直々に傷の手当てをしてもらうことですね」
添えられていたのは、足首に包帯が巻かれた写真。その写真には松尾の実家のテーブルが写り込んでいて、テーブルの上には松尾修が外した腕時計が置かれていた。
彼は彼女を、実家に連れて行ったのだ。
数分後、その投稿は削除され、すぐに新しいものが投稿された。「お説教されちゃった。次はちゃんとお約束の場所で待ってます」
私はスクリーンを睨みつけ、胸に石を置かれたような重苦しさを感じた。
これは偶然の往診などではない。計画されたデートだ。
松尾修は彼女を、私たちの共通の家族の集いの場へ、私がかつて「家族」だけのものだと思っていたあの場所へ連れて行ったのだ。
深く息を吸い、私は椎名由衣の投稿に「いいね」をつけ、コメントした。
「腕時計、素敵ですね」
それからスマホをマナーモードにして、手元の仕事に向き直った。
午前中いっぱい、私の思考は上の空で、作家たちが修正してきた原稿も、目の前でぼやけた文字の羅列に変わってしまった。
昼にデスクへ戻ると、松尾修と椎名由衣からそれぞれ五、六件の着信があった。椎名由衣のLINEの投稿も削除されている。
再びスマホが鳴り、私は通話ボタンを押した。
「美緒、どうして電話に出ないんだ」
松尾修の声には、どこか困惑した響きがあった。
「仕事よ。何か用?」
私は平静を装って答える。
「由衣の投稿のことだけど……君は誤解しているかもしれない」
彼は慎重に切り出した。
「誤解って、何が? 私はただ思ったことを言っただけよ」
私は軽く受け流す。
電話の向こうで何やら衣擦れの音がして、それから椎名由衣の泣き声混じりの声が聞こえた。
「美緒さん、ごめんなさい。おじ様とおば様にお会いするのが久しぶりで、今日ご挨拶に伺ったんです。そしたら修さんもいらっしゃって、足首の怪我を手当てしてくださっただけで……」
私は鼻で笑った。
「そんなに慌てて、何か後ろめたいことでもあるのかしら?」
電話の向こうが数秒沈黙し、松尾修が静かに言った。
「美緒、君が思うようなことじゃない。由衣はただ、両親に会いに来ただけだ」
途端に、彼を皮肉る気力さえ失せてしまった。
松尾修はため息をつき、口調を和らげた。
「いつ仕事が終わる? 迎えに行くから、一緒に夕食を食べよう。母さんが君の好きなすき焼きを作ってくれたんだ。ゆっくり話せる」
これは彼の常套手段だ。
私たちに何か揉め事があるたび、彼はいつも両親や美味しい食事を持ち出して場を和ませようとする。だが、今回はそうはいかない。
「松尾修、あの家に、彼女がいるなら私は行かない」
私は一言一言、区切るように言った。
電話の向こうが静まり返る。椎名由衣にも聞こえたのだろう。
松尾修の口調が、途端に冷たくなった。
「好きにしろ」
電話は切れ、私は窓の外の桜の木を眺めながら、心が死んだように冷えていくのを感じた。
スマホを手に取り、すべての未読メッセージを削除し、それから松尾修の連絡先をおやすみモードに設定した。
今日から、私たちの関係を、私が再定義する。
