第3章
ボディガードはもう躊躇しなかった。ひとりが前に出て、林原撫子の片腕をがしっと掴む。撫子がどれほど身をよじっても、振りほどけない。
林原撫子は悲しみと痛みに濡れた目で、かつて血を分けたはずの家族を見つめた。
喉の奥が詰まり、嗚咽まじりに問いかける。
「……私、帰ってきてほしくなかったの? あなたたちにとっては、外で死んでたほうが都合がよかった?」
その言葉に、周囲の客の視線が微かに揺れた。林原家の面々へ向けられる目つきが、どこか探るようなものに変わっていく。
林原父は内心で舌打ちする。
こんなに人がいる場で、何を言い出すんだ。ここで騒ぎが広まれば、長年築いてきた体面が一瞬で崩れる。
林原父は林原母に目配せした。
林原母はすぐに一歩進み出て、困ったようにため息をついてみせる。
「撫子、勘違いしないで。私たちが、あなたに外で死んでほしいだなんて思うわけないでしょう? あなたは私たちの実の娘よ」
「ただ……今のあなたには、感染症の可能性があるかもしれない。あなた一人のせいで家族全員が巻き込まれるわけにはいかないの」
「検査に協力してちょうだい。何もなければ、すぐ迎え入れるから。家はいつだって、あなたを歓迎するわ」
林原撫子は崩れかけの精神の縁で、涙を溜めたまま叫ぶ。
「何回言えばいいの……! 私、病気なんかじゃない!」
林原景也はとうに我慢の糸を切っていた。
「さっさと連れていけ! こっちだってこのあと、家族で病院へ行って全身検査するんだ!」
撫子は掴まれた腕を必死に引く。だが、鉄のような指は外れない。強引に連れて行かれそうになった、その瞬間――背後から氷のように冷たい声が落ちた。
「やめろ」
大きな声じゃない。なのに、空気がきしむほどの圧で場を切り裂いた。耳元で霜が弾けたみたいに、ぞくりと背筋が凍る。
その場の全員が動きを止め、振り返る。
村木原矢が、黒い制服姿で歩いてきた。
彫りの深い端正な顔立ち。鋭く冷えた眼差し。高い鼻梁の下で結ばれた薄い唇。近づくだけで、周囲の温度が下がるような男。
林原撫子は呆然とした。
地下室で、自分を助け出した警官だ。血に視界を塗りつぶされ、まともに物を考えられなかったあのとき、刃物を奪い、警察署まで連れて行った――。
なのに、どうしてここに?
林原家の面々も目を見開く。
林原景也が顔を曇らせて吐き捨てた。
「誰だ、お前。うちの問題に部外者が口を出すな」
林原父が我に返り、慌てて怒鳴る。
「黙れ! こちらは村木原矢警察官だ。最年少で功績も多く、国際刑事警察にも関わるお方だぞ。越境捜査の権限もお持ちだ!」
林原景也の顔が引きつった。
林原撫子は胸の内で、その名をそっと反芻する。
――村木原矢。
拉致される前に、村木家の噂を耳にしたことがあった。ひとり息子で、巨額の資産を継がず警察を選び、そのせいで家と何年も対立している、と。
林原寧々の瞳がきらりと光り、無意識にスカートの裾を撫でた。存在しない皺を整える仕草で。
村木家。街の経済の三分の二を握る一族。林原家では到底手が届かない――。
もし自分が、村木家の奥様になれたら?
芽吹いた欲は、簡単には枯れない。
村木原矢の視線が、ボディガード二人へ鋭く走る。
二人は顔色を変え、反射的に手を離した。まるで洪水か猛獣でも見たかのように。
林原撫子はようやく自由になる。
林原父は媚びた笑みを貼りつけ、歩み寄った。
「村木警察官、どうしてこちらへ? どうぞ中へ。お掛けになって――」
村木原矢は表情を動かさず、冷たく問い返す。
「今、何をしていた」
林原母も笑顔を作り、慌てて言い訳を並べた。
「撫子が犯罪組織に囚われていた間に、ひどい噂が出まして……それで、身体検査を受けさせようとしていたんですの」
林原撫子の胸に、嘲りがせり上がる。
感染を恐れているだけなのに、「本人のため」に言い換える。その口で語っているのが、信じて頼ってきた母だなんて。
林原父も続けて言葉を重ねた。
「二次被害を防ぐためにも、健康だと証明できる診断書が必要でして。噂を封じる材料に――」
夫婦で息を合わせ、話の筋を別の方向へねじ曲げていく。
林原撫子は、言葉を失った。
村木原矢の目が、破空の刃みたいに鋭く深い。
「俺が、そんなに馬鹿に見えるか」
その一言で、林原父と林原母の顔色がさっと青白くなる。
「林原撫子はすでに精密検査を受けている。疾患も感染症も、一切ない」
村木原矢の視線がゆっくりと場を撫でる。誰ひとり、まともに目を合わせられない。
「我々は被害者の心身の健康と、周囲の環境要因を重大に扱っている。今後、悪意ある流布や扇動を行った者は、法により厳正に処罰する」
それは忠告ではない。警告だった。
林原撫子は、呆然と彼を見つめる。
孤立無援のとき、彼が救ってくれた。そして今もまた、噂から守ってくれる。
見ず知らずの他人がここまでしてくれるのに、家族は――。
林原撫子は複雑なまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、村木警察官。あなたがいなければ……私は今も地獄の中でした」
村木原矢は、ほんのわずか攻撃性を引っ込める。
「礼はいらない。警察として当然だ。悪を叩くのが俺たちの使命だからな」
林原寧々は、さっき整えたばかりのスカートをまた握り、皺を作った。嫉妬が抑えきれない。
どこから湧いてきた、あのクズ――。生きて戻っただけでも腹が立つのに、村木原矢に救われるなんて。
林原撫子は勇気を搾り出し、もう一歩だけ前へ出た。
「村木警察官……もう一つ、お願いがあります」
「地下室は、あいつらの臨時の拠点にすぎません。まだ他にも、被害者が分散して監禁されています。どうか……彼女たちも助けてください。私は首領格の顔を見ています。捜査にも協力できます」
撫子がいちばん気がかりなのは、同じ地獄を生き延びた女たちだった。彼女たちは今どこへ移され、また新たな虐待を受けているのか――そう思うだけで息が詰まる。
村木原矢は、撫子の怯えを含んだ眼差しを読み取り、頷いた。
「安心しろ。今日は、その件でお前を探しに来た」
