第4章

さっき林原お父さんと林原お母さんを問い詰めたときの鋭い声音に比べれば、村木原矢の返答はずいぶんと柔らかかった。

林原撫子は、胸の奥でふっと息をつく。

これほど頼もしい助力が得られたのだ。いまも苦しみ、閉じ込められている女たちにとって、救いの手が届く可能性は確かに増した。

林原撫子は乾いた唇をそっと引き結び、向かいの制服を隙なく着こなした男を見つめる。瞳の奥に、敬意が滲んだ。

知り合ってまだ短い。けれど、その身にまとった正義の気配だけで、十分すぎるほど人を納得させる。

「村木警察官……まだ抜け出せていない人たちの分まで、改めてお礼を言わせてください」

林原撫子は軽く頭を下げ、真摯に言葉を置いた。

わずかな動きが首筋の傷を引きつらせる。眉をきゅっと寄せはしたが、顔色は変わらない。まるで、あの息の詰まる檻から救い出されたばかりだとは、誰にも悟らせないかのように。

村木原矢は目を伏せ、彼女を見た。

礼など、必要ない。悪を刈り取り、無辜の命を救う。それは彼自身の望みであり、選んだ道だ。

それでも――目の前の少女は、非人道の苦しみをくぐり抜けたはずなのに、まだこんなにもまっすぐだ。

村木原矢の眉がわずかに上がり、眼差しに微かな賞賛が宿る。

周囲の客たちは、どう収拾をつけていいかわからなくなっていた。最初は野次馬根性で首を突っ込んだだけだ。まさか村木原矢が現れ、しかも林原撫子を庇うとは。

村木原矢が保証した以上、これ以上「潔白」に食い下がれば、村木家の御曹司に楯突くも同然だ。そこまで愚かではない。客たちは気まずげに目を逸らし、三々五々散っていった。

ようやくこの茶番が終わり、林原撫子の胸の内も少しだけ緩む。裙の汚れも構わず、彼女はもう一度、村木原矢を見上げた。

今度は、焦りを隠せない声音だった。

「村木警察官……犯人を一日捕まえられなければ、その分だけ、閉じ込められている人たちの危険が増えます」

「急ぎましょう」

瞳の奥が揺れる。あの陽の差さない場所がどれほど絶望に満ちているか、毎日の酷い折檻がどれほど痛いか。彼女は誰より知っている。いまこの瞬間にも、救いを待つ人がいると思うだけで、喉が詰まる。

村木原矢は一瞬だけ考え、軽く頷いて車へ向かった。林原撫子も足を出し、後を追う。

二人が踏み出した、その一歩目。

甲高い女の声が、先に静寂を裂いた。

「お姉ちゃん、さすがにそれは礼儀知らずだよ」

声の主は林原寧々だった。

林原撫子の足が、思わず止まる。

「村木警察官はお姉ちゃんの命の恩人でしょ。つまり、林原家の恩人でもあるの。恩人がわざわざ来てくれたのに、温かいお茶の一杯も出さずに急いで帰していいわけないじゃない」

林原寧々は甘い笑みを張りつけたまま林原お父さんの隣へ寄り、子どもみたいに腕を揺すった。

「ねえ、お父さん。お父さんって、子どもの礼儀には一番うるさいでしょう。お姉ちゃんが一年外にいたら、作法を忘れちゃうのも無理ないけど……うちは、けじめを崩しちゃだめだよ」

含みのある視線を投げられ、林原お父さんは即座に理解した。

普段は村木原矢と顔を合わせることすら難しい。今日こそ、取り入る千載一遇の好機だ。関係を作れれば得しかない。

やはり寧々は気が利く。

林原お父さんは目を転がし、少し後ろにいる林原撫子へ一瞬だけ視線を置く。瞳の底に、消えるほどの嫌悪。

この長女は、村木原矢に張りつくことしか考えていないのか。こちらが繋がりを作る機会すら用意しない。さらわれたのも頷ける――家にいても役に立たない、とでも言いたげに。

「村木警察官、寧々の言う通りです。家族としても、撫子の命を救っていただいたお礼をきちんと申し上げたい。撫子が気が利かず、どうぞお入りくださいと口にしなかったもので」

媚びるような笑みを浮かべ、林原お父さんは数歩近づく。林原お母さんと林原寧々も、その後ろに続いた。

「それに、撫子は連れていかれて……どれほど酷い目に遭ったか。親なら誰だって胸が裂けますよ。私は妻と、この一年、星を待ち月を待つ思いで……ようやく無事に帰ってきた。その陰には村木警察官のご尽力がある」

言いながら、林原お父さんはわざとらしく目元を拭い、深くため息を落とす。

林原寧々も痛ましげに父を見つめ、悲しげな声を添えた。

「村木警察官、私たち、ほかに何か望みがあるわけじゃありません。ただ、ちゃんと感謝を伝えたいだけで……」

そう言って、潤んだ目で村木原矢を見上げる。楚々とした姿は、知らない者なら騙されるだろう。

林原撫子は横目でその様子を見て、口元が引きつるのを感じた。

昔の自分なら、妹は本気で恩返しがしたいのだと思い込んだはずだ。だが今は違う。林原寧々の「誠実そうな顔」を、どうしても信じられない。

客たちの囁きが、またじわじわと広がる。

「林原寧々お嬢様は本当に気が利くねえ。妹なのに恩人を引き留めるなんて」

「むしろあの子のほうが姉みたいだ。で、林原撫子は……」

続きは言わずとも伝わる。

林原撫子は、脇に垂らした手を握ってはほどき、口角だけを持ち上げた。冷ややかな、嘲りを含んだ笑み。

林原寧々はうまい。たった数言で、また自分を矢面に立たせる。

ひそひそ、くすくす――抑えた声ほど耳につき、胃の奥をざらつかせる。

村木原矢は苛立たしげに眉を寄せ、ドアを開けかけた手を取っ手に置いたまま、振り返った。眼底の不機嫌が隠しきれない。

「その媚びる力を稽古と学びに回していれば、林原家も何十年もかけてようやく城内で名が出る、なんてことにはならなかっただろうな」

言葉が落ちた瞬間、空気がすっと冷える。

村木原矢は若い。だが、長年商いの場で生きる老獪な連中より、よほど人を黙らせる圧があった。

「客として残るだの、茶だの……そんなことに費やす時間はない」

それだけ言うと、彼は迷いなく運転席のドアを開け、すばやく乗り込む。バン、と鈍い音を立ててドアが閉まった。

林原撫子はその場に立ち、ガラス越しに村木原矢の細長い目と視線を合わせる。彼はわずかに顎を動かし、乗れと示した。

迷いは要らなかった。

林原撫子は小さく頷き、助手席へ回って乗り込む。

エンジンがかかり、低い振動が車体を震わせる。

林原寧々は車の前方に立ったまま、呆然とその光景を見ていた。耳に入った言葉も、目の前の現実も、信じられない。

村木原矢は、彼女にまともな視線すらくれなかった。しかも「ここに残るのは時間の無駄」だと断じた。

林原寧々は唇を噛み、拳を握りしめる。掌に爪が食い込み、じんと痛い。

自分は林原寧々だ。こんなふうに露骨に無視されたことなど、今まで一度もない。

しかも周りには大勢がいる。面子を潰され、笑いものにされたのは自分だ。

恥ずかしさで逃げ出したくなりながら、彼女は笑みを貼りつけた顔を保てなくなる。

ここまで来ると、客たちもこれ以上の見物はできず、各々席へ戻っていった。

だが林原寧々だけは、その場に立ち尽くし、マイバッハが去っていく方向を睨みつけて歯を食いしばる。

階段の上では、雨宮蓮二が二人の姿が消えるのを見届けていた。胸の内に、言いようのない感覚がじわりと広がっていく。

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