第5章
だが、そう時間はかからなかった。雨宮蓮二は視界の端に映った林原寧々の、むくれながらもどこか傷ついた顔に気づくと、反射的に歩み寄って宥めた。寧々は一瞬きょとんとし、こわばっていた表情が少しずつほどけていく。
彼女は行儀よく雨宮蓮二の手を小さく揺らし、蜜のように甘い声で言った。
「雨宮蓮二お兄さん、やっぱりお兄さんがいちばんだよ」
甘えた響きが、そのまま胸の奥に溶け込んでくる。
雨宮蓮二は口元を抑えきれず、ふっと笑みを浮かべて林原寧々の肩を抱いた。
林原撫子のほうが顔立ちは数段上だとしても、もう「傷」がついた。今さらどう足掻いても、林原寧々には敵わない。
*
その頃、別の場所。
車は、両側の雑草が人の背丈ほどもあるでこぼこの小道を、がたがたと揺られながら走り続けた。およそ三十分後、廃工場の前でようやく停まる。
「ここは市の外れの工場だ。あの地下室からお前を救出してから、うちの班は休む間もなく地下室の洗い直しに入った」
村木原矢は険しい顔のまま、低く言い切った。
「地下室には隠し通路があった。ここまで繋がってる」
林原撫子は息を呑み、目を見開く。
地下室が中心部からそこまで離れていないことは覚えている。だが、そこから郊外の工場へ地下道を伸ばすとなると、距離が桁違いだ。しかも、誰にも気づかれずに掘り進めるなど――。
どれほどの工事になる。
撫子は考え込みながら村木原矢と視線を交わした。
犯罪組織は、彼女が想像していたよりもずっと大きい。ずっと根が深い。
けれど今は、それを恐れている場合ではない。
林原撫子は顔を手の甲で乱暴に拭い、少し乱れた髪をきゅっと結び直した。汚れなど構っていられない。躊躇なく工場へ踏み込む。
案の定、中はもぬけの殻だった。
撫子はその場にしゃがみ込み、冷静に周囲を観察する。
工場の内部構造は妙だった。窓が一つもない。室内は闇に沈み、うっすらとした黴の匂いに、血の生臭さが絡みつく。
この匂い――。
撫子は指先で床の埃をつまみ、胸の底で確信が固まっていく。
「ここも……あの連中が使ってた。血の匂いがまだ残ってる。移したのは、つい最近」
地下室が露見した以上、ここももう隠しきれない。
「今は騒ぎになってる。人を連れて、堂々と街へ入れるはずがない」
撫子は目を閉じ、必死に記憶を探った。役に立つ断片を一つでも拾い上げようとする。
数秒後。
彼女は床に滲む鈍い血痕を見つめたまま、ふと、その脇の乾いた土から蟻が這い出してくるのに気づく。
蟻――。
視線が蟻を追った瞬間、頭の奥で光が弾けた。
そうだ、蟻!
撫子は心臓が跳ね、勢いよく立ち上がると、別方向で痕跡を探していた村木原矢へ駆け寄った。
「わかった!」
喉が締まり、声が震える。それでも興奮が抑えきれない。
「連中は目立たない場所で、長く潜めるところを選ぶはずです。食べ物と水がある場所……」
息をつく間もなく続ける。
「わたし、連れて行かれた場所で見たんです。壁際に蟻がたくさんいて……蟻が群れるのは、甘いものがあるから」
広い空間。甘味。
連中の動き方を考えれば、候補は工場しかない。
村木原矢の眉間がふっと緩み、視界が開けたように頷く。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。彼はすぐに取り出し、画面を確認する。
「こっちでも手がかりが出た」
班は最初から、身を隠せて人を閉じ込められる、しかも人目につきにくい工場を重点的に洗っていた。そこに撫子の話が重なる。
村木原矢の目が走り、ある一文で止まった。
白糖の製造工場。元は中心部にあったが、資金難で十年前に市の外縁へ移転。
郊外ど真ん中ではないが、明らかに人気が薄い。アジトにするなら、ここが最有力だ。
位置が固まると、二人は一秒も無駄にせず小走りで車へ戻った。
一時間もしないうちにナビが案内を終え、村木原矢は腰の拳銃を確かめるように触れる。
降りるとすぐ、背後にパトカーが次々と滑り込んできた。村木原矢は降車してくる同僚たちに軽く頷き、先頭に立って工場へ向かう。
林原撫子は自分に自衛の術がないとわかっていた。二歩ほど後ろを保ち、周囲に神経を尖らせながら歩く。
見た目は、ごく普通の工場だ。外観も古びていて、錆びた鉄板の看板に「白糖」「工場」という文字がかろうじて読める。
村木原矢は慎重に隊を率いて中へ入る。腰の拳銃は抜かれており、手慣れた構えで前方へ向けられていた。
工場内は薄暗く、気配がない。
巨大な棚が二列に並び、その上には埃をかぶった白糖の袋が積まれている。破れた袋から、少し黄ばんだ砂糖が床へさらさらと零れていた。
村木原矢のブーツが木の床を踏む。ぎし、と鈍い音。
彼はぴたりと足を止め、足元の板を見下ろす。
「音が違う」
ぽつりと呟く。
背後の警官が察し、ナイフを取り出して板の隙間に差し込み、てこの要領でこじ開けた。
ぎい、と重い軋みのあと、板が持ち上がる。下は――空洞。
目立たないこの工場にも、地下があった。
村木原矢は板を跳ね上げ、懐中電灯で階段を照らしながら降りていく。林原撫子も続いた。
地下は埃だらけだった。村木原矢の光が奥へ伸びる。そのとき、床の不自然な盛り上がりが視界の端をかすめる。
ライトを向ける。
何があるのか見えた瞬間、村木原矢の呼吸が止まり、瞳孔がきゅっと縮んだ。
撫子も同じものを見て、目の色が一気に硬くなる。
腕を下げた手がぎり、と拳になる。歯を食いしばり、抑えきれない怒りが瞳に燃えた。
床一面に、びっしりと人がいる。
しかも、皆、息も絶え絶えだ。動ける者はほとんどいない。ひと目で、何人が生きているのかさえ判別できなかった。
「……畜生ども。人間のやることじゃない」
爪が掌に食い込み痛みが走る。それでも撫子は気づきもしない。
「救助だ!」
村木原矢は感情を押し殺し、怒号を放って駆け出した。
それに続き、警官たちも一斉に動き出す。
だが、誰にも気づかれない隅で、赤い光がゆっくりと明滅していた。
それは――死へのカウントダウン。
「待って! 爆弾がある!」
林原撫子は自分の目を疑い、反射的に叫んでいた。視線は一度も逸らさず、隅を睨みつける。
喉がからからに乾き、声が擦れる。彼女は震える腕を上げ、隅でうつ伏せのまま動かない一人を指さした。
その背中に、爆薬が縛り付けられている。
村木原矢は即座に察し、動きを止めた。すでに手を置いていた負傷者の腕を掴んだまま、次の瞬間、強引に身体を返す。
やはり――背中に爆薬。
ここにいる全員、背中に爆薬を括り付けられている。
爆薬の小さな電子表示が、ごく微かな電子音を刻む。
ピッ、ピッ、ピッ……。
「五——四——三……」
