第4章
「梨紗、やりすぎだろ。さっきリリアが……こっそり部屋を譲るって俺に言ってたんだぞ。それなのに、お前は――」
康之が堪えきれずに声を荒らげた。
さっきまで、彼は黙っていた。小岩家の連中が梨紗に浴びせる悪意の言葉が、胸に刺さっていたのだ。自分の中に、まだ梨紗がいることも認めざるを得ない。
風が吹けば倒れそうな、あまりに薄い背中。痛々しくて目を逸らしたくなるほどで、胸が締め付けられる。自然と、かつての甘い日々が蘇った。
三年前の『事故』さえなければ――二人は、誰もが羨む夫婦になっていたはずだ。
彼は梨紗を案じていた。だが今の梨紗は、まるで何かに取り憑かれたみたいで、そこに失望も混じる。
「いいの、康之」
リリアが小鳥みたいに康之へ寄り添い、腕の中に身を預けた。涙を滲ませた顔は、いかにも健気で、楚々としている。
「梨紗が私を恨むのも分かる。あのとき、助けなかったって……だから、少しくらい発散させてあげて」
「でも、それは君のせいじゃないだろ。そんなふうに我慢する必要なんて――」
康之が痛ましげに言いかけたところで。
「我慢?」
梨紗が、まるで天底の冗談でも聞いたみたいに笑った。
「全部仕組んで、私を三年も地獄に落としたくせに。私のほうが何百倍も委屈してる。あんたに、委屈ぶる資格なんてあるの?」
康之は言葉を失った。
梨紗の騒ぎが続くにつれ、外の客たちまで気配を察し、二階へ上がろうとし始める。足音が増え、ざわめきが近づくのが分かった。
このままでは外聞が最悪だ。
亀之助は奥歯をぎり、と噛みしめ、靜美と目配せを交わす。――渋々、梨紗を衣装部屋に寝かせることを認めた。
「そんな……じゃあ、私の服はどこに置くの?!」
リリアが反射的に叫び、すぐにハッと気づいたように声を弱めた。
「……梨紗が衣装部屋で寝るのは、ちょっと……だったら、私の部屋を――」
靜美が深く息をつき、リリアの手を取り、労わるように握りしめる。
「あなた、いい子すぎるわ。時々は、そんなに聞き分けよくならなくていいのに」
それから、少しだけ声を落とした。
「今は衣装部屋を梨紗に譲ってあげなさい。あとでママが、もっと大きいのを作ってあげる。ほら、外にはお客さまがいるの。今日はあなたの誕生日なんだから、きちんと締めないと」
リリアは健気に頷き、靜美に連れられて部屋を出ていった。
扉をくぐる直前、リリアはふいに振り返る。
梨紗へ向けた目は、優しさの仮面を脱ぎ捨てた怨毒そのものだった。
――生きて戻ってくるなんて、想像もしていなかった。
でも、問題ない。みんなが――康之でさえ、自分の味方だ。
三年前、梨紗を『地獄』へ送れた。なら三年後も、また送れる。
――
人だかりがどっと引いていき、室内には梨紗だけが残った。
全身の力が抜け、梨紗はベッドへ崩れ落ちる。もともと弱り切った身体だ。さっきの一騒ぎで、限界を越えていた。
ピンク色の天井を見つめたまま、ぼんやりと息をする。
分かっている。今夜は、始まりにすぎない。
リリアに復讐し、代償を払わせるなら――終わりのない策略と陰謀が待っている。
裏切り者の康之も同罪だ。あの誘拐だって、彼の後押しがなければ成立しなかった。
昔の自分なら、飲み込んだかもしれない。
けれど――地獄を見た人間は、もう元には戻れない。
この先どれほど苦しくても、あの二人だけは絶対に許さない。
どれくらい時間が経ったのか。外がすっかり暗くなり、廊下の向こうで小さな騒ぎが起きる。
梨紗が起き上がって扉を開けると、使用人たちが入口でうろついていた。梨紗を見るなり、怯えたようにさっと後退りし、距離を取る。
「何?」
梨紗が冷たく問う。
ひとりが意を決したように半歩だけ進み――それでも線を引くように距離を保ったまま、言った。
「奥さまから……リリアお嬢さまのお品を回収するようにと」
梨紗は振り返り、散らかった服とバッグを一瞥する。正直、目障りだった。
「入って」
そう言っても、使用人たちは動けない。結局、防護服を持ち出し、それを着込んでから、そろそろと室内へ入っていった。
梨紗は壁際に立ち、無言で眺めていた。
ショーケースの宝飾品に手を伸ばした使用人へ、低い声を投げる。
「待って」
梨紗は歩み寄り、宝石をひったくるように取り返した。
使用人はびくっと肩を跳ねさせ、飛び退く。
「梨紗お嬢さま……そ、それはリリアお嬢さまの宝飾品で……全部回収するように、と……」
梨紗はそれを見つめ、思い出す。
十八歳の成人祝いに、靜美から贈られた品。ショーケースには、ほかにも元々は自分のものだった宝飾品がいくつも並んでいる。
たった三年消えただけで、全部リリアのものになった?
梨紗の口元が冷たく歪む。
「リリアに伝えて。あの子の物はいらない。でも、私の物は――絶対に持っていかせない」
梨紗は自分の宝飾品だけを選び取り、手元へ寄せた。使用人たちは何も言えず、俯いて他の荷物を片づけ始める。
その作業の隙に、梨紗は改めて部屋を見回した。
窓際に大きな棚。そこには、ぎっしりとトロフィーが並んでいる。
近づき、ひとつひとつ目を凝らして――息が詰まった。
国際デザインコンテストの受賞トロフィー。数え切れないほど。さらに、トップクラスのデザイン学院を卒業したという栄誉証書まで。
麻痺していたはずの心が、また鋭く刺された。
小岩グループは、国内トップ100に入るデザイン企業だ。梨紗は幼いころからそれを見て育ち、パーソンズ美術大学に進み、デザイナーになるのが夢だった。
才能も、あった。
それなのに家族は、彼女にデザインを触れさせなかった。『お前は家の宝なんだから、会社の心配なんてしなくていい』という名目で。
康之も同じだ。彼は梨紗に『良妻』を求め、表に出る仕事を嫌った。
パーソンズから特別合格の招待が届いたとき、梨紗は断った。
――そして今。自分が手を伸ばせなかったものが、全部リリアに与えられている。
梨紗は拳を握り締め、やがてふっと力を抜いた。嘲りの笑みが浮かぶ。
救出されたあと、梨紗は会社の状況を聞いている。
数年前から小岩グループの業績は落ち込み、古臭いデザインは時代に淘汰されていった。
それを救ったのが、ノックスという謎のデザイナー。破産寸前だった会社を、再び頂点へ押し上げたという。
だがノックスは三年前に消息を絶ち、今の小岩グループは見かけだけの繁栄――実態は限界寸前だ。
梨紗はトロフィーの列を見つめ、唇を吊り上げた。
「リリアがそんなにすごいなら、会社だってもっと伸びるはずでしょ。結局、空っぽの見せかけ」
視線が冷える。
「――素敵なお母さま、立派なお父さま。私に頭を下げる日を、楽しみにしてる」
