第5章
豪奢で夢みたいな内装の部屋で、リリアは使用人の報告を聞き終えた。梨紗が高額な宝飾品を何本も持ち去ったと聞いても、表情は「ふうん」と涼しい顔のまま。けれど胸の内では、腸が煮えくり返って何度も毒づいていた。
使用人が去ると、リリアは堪えきれず吐き捨てる。
「梨紗、あんたほんとクズ。帰ってきた途端、わたしのものを奪うなんて」
そう言った直後、ふっと何かを思いついたように、リリアの口元がにやりと持ち上がった。
廊下では靜美が新しい服を抱え、梨紗の部屋へ向かうところだった。すると、リリアが自分の宝石箱を胸に抱え、涙を拭いながらしゃくりあげているのが目に入る。
靜美は慌てて駆け寄った。
「どうしたの?」
靜美の姿を見た瞬間、リリアはぴたりと泣き止み、無理やり従順そうな笑顔を作る。
「ママ……さっき、使用人に梨紗のところの片づけを頼んだの。そしたら梨紗が、わたしの宝石を全部持っていっちゃったって。……『それは私に返すべきものだ』って言って……。梨紗、帰ってきたばかりだし、きれいにして気分を上げたいのかなって思って。だから、残ってた分は全部、わたしからも渡そうと思ったの」
悔しくてたまらないはずなのに、気丈に笑う娘。その姿に靜美の胸はきゅうっと締めつけられ、同時に梨紗への嫌悪が濃くなる。
靜美は宝石箱を開け、思わず声を落とした。
「これ、あなたがいつも大事にしてたのばかりじゃない。どうしてそんなものを……」
「いいの、ママ。梨紗は三年も苦しんだんだよ。わたしのこと恨んでても当然だし。これを渡せば、少しは許してくれるかもしれない」
靜美がさらに言い聞かせようとした、その瞬間。
がちゃり、と扉が開いた。
梨紗が部屋の入口に立ち、余裕たっぷりにリリアを見下ろしていた。
「そんなに親切に、首飾りも何も全部くれるって言うなら。遠慮なく、もらっておくね」
言い終えるが早いか、梨紗は歩み寄り、宝石箱をひょいと取り上げた。
リリアは、その場に凍りつく。
まさか、本当に受け取るなんて。
ようやく我に返ったときには、涙がぽろりと落ちていた。
「うん……梨紗が喜ぶなら、それでいいの。宝石くらいじゃなくて、わたしのバッグだって全部あげてもいいよ……」
「ほんとに?!」梨紗はぱっと顔を明るくする。「じゃあ最高。今すぐ、全部ちょうだい」
リリアは奥歯をぎりっと噛む。怒鳴り返してくると思っていたのに、差し出した棒にそのまま登ってくるとは。
靜美の顔が一気に険しくなった。
「梨紗、みっともない真似はやめなさい。リリアはあなたが可哀想だから、自分が我慢してでもあなたを喜ばせようとしてるのよ。それなのにあなたは、姉妹の情なんて少しも考えず、奪うことしか――」
梨紗は肩をすくめる。
「向こうが『あげる』って言ったんでしょ? 受け取らないほうが失礼じゃない」
そう言いながら梨紗は使用人を数人呼びつけ、リリアの部屋から限定のブランドバッグをいくつも運ばせた。どれも一つで何十万もする品だ。
「待って!」
リリアは心臓を握りつぶされるようで、思わず叫んでしまう。
梨紗が振り向き、にっこり笑う。
「どうしたの? 惜しくなった? さっきの大盤振る舞い、演技だったんだ。ママの前で『あげる』って言って、私が受け取ったら怒らせて叱らせるつもりだった?」
靜美の視線も、リリアへ向く。
リリアは逃げ道を失い、笑顔を引きつらせた。
「ち、違うよ。バッグの手入れの仕方、教えようと思っただけ……」
「いらない。ありがとう」
梨紗は淡々と言い捨て、バッグを提げて部屋へ戻ると、ばんっと扉を閉めた。
寝室に戻った梨紗は「ぷっ」と吹き出した。リリアの面子が潰れた顔を思い出すだけで、胸の内がすっとする。
宝石とバッグをざっとまとめ、シャワーを浴びて清潔な服に着替えると、そのまま荷物を持って外へ出た。
玄関近くで、康之と鉢合わせる。
目が合う。梨紗は無視して通り過ぎようとしたが、康之のほうが一歩踏み出し、言いづらそうに口を開いた。
「……用があるのか?」梨紗が眉をひそめる。
康之はため息をつく。
「リリアから聞いた。お前、復讐のつもりでリリアの宝石やバッグを奪ったって……。欲しいなら俺に言え。買ってやる。だから、あいつをいじめるのはやめろ」
梨紗は目を細めた。
「私が欲しいもの、全部買ってくれるの?」
康之は頷き、ポケットから判を押した白紙の小切手を取り出した。
「帰ってきたばかりで金に困ってるだろ。これ、やる。欲しい額を自分で書け」
梨紗は眉を上げ、抱えていた荷物を床に置くと、小切手を受け取ってしばらく無言で見つめた。
康之は、彼女が感動したと勘違いしたのか、言葉を重ねる。
「これは補償だ。三年前、俺が……お前を押し出した。あのときの償い。金を受け取ったら、俺たちのことはもう終わりにしよう。お前、まだ俺のこと好きなんだろうけど……でもお前はエイズだ。もう無理だ」
梨紗は返事をしない。ポケットからペンを取り出し、小切手にさらさらと書き始めた。
康之が気になって覗き込む。数字が見えた瞬間、顔色がさっと青ざめた。
「9,999……億……9……」
「待て!」康之が慌てて止める。
梨紗は冷たい目で一瞥した。
「好きに書けって言ったのに、急に惜しくなった? その程度で大口叩かないで。こっちが恥ずかしくなる」
そう言い捨て、梨紗は小切手をびりびりに破り、床へ落とした。
「ひとつ訂正。私はもう、あなたに何の感情もない。私を押し出したその瞬間から、あなたは私の中で死刑」
それ以上は話さず、梨紗は屋敷を出ていった。
康之は梨紗の背中を見つめ、複雑な思いに沈む。
――梨紗。感情がないなら、なぜ小切手を受け取らなかった? なぜリリアにこんな真似をして、俺の目を引こうとする? やっぱり、俺への気持ちは深いんだ。
もちろん梨紗は、そんな独りよがりな結論など知る由もない。
タクシーでブランド買取店を回り、宝石もバッグも全部売った。品が高額なぶん一軒では捌けず、何店か回ってようやく売り切る。手元に残った現金は、端数を差し引いておよそ一千万。
三年消えていたとはいえ、小岩家が死亡届を出して口座を止めていなかったおかげで、手元のカードも使えた。
梨紗は新しいスマホを買い、新しいSIMも契約する。アカウントにログインし、バックアップしていたデータを新端末に復元した。
ネットバンクを開くと、残高は五千万以上。
入金履歴を確認すると、三年前タイへ行く前にオンラインのオークションに出していた絵が三枚、落札されていた入金だった。
画面いっぱいに並ぶ数字を見て、梨紗の胸の奥が少しだけ落ち着く。
金がある。――復讐の足場ができる。
SNSにもログインした。途端に通知が雪崩れ込む。
国内でも屈指の画廊からの契約打診。画壇で知り合った友人たちからのメッセージ。中には99+で、ただひたすら「どうした」「何かあったのか」と心配する言葉が埋まっている。
最新は今朝のものだった。
匿名で活動していなければ、警察に届けて探していたに違いない。
胸がじんと温かくなる。――まだ、自分を気にかけてくれる人がいる。
梨紗は国内トップクラスの画廊、Aetheris Galleryのオーナー村木とのチャットを開き、三年前に描いた最後の一枚のデータを送信した。
『いつものやり方で。作品はオークション、期間は3日。最高額の人に』
