第6章
その言葉は、間違いなく九条美琴の急所を抉った。
美琴は陸川雅樹を睨みつける。視線は一瞬で氷点下まで冷え切り、表情という表情が消えた。
――この一言だけで、こいつとはもう敵だ。
赤の他人なら、話が合わなければ黙っていればいい。それなのに、この男はわざわざ人の痛みを選んで踏みにじり、嘲ってみせた。
陸川家。J市で最も名望と権勢を誇る名家。
その家が育てた人間が、こんなにも品がないなんて。
ちょうどエレベーターの扉が開く。美琴は冷たく視線を引き剥がし、何も言わずに降りた。
陸川雅樹は彼女の背中を見送る。さっきの反応を思い返した瞬間、胸の奥を、ちくりと後悔が掠めた。
三年間も売られ、死の淵から這い戻った被害者だ。全身に傷を抱え、骨と皮だけみたいに痩せ細って――本来なら、家族が泣いて抱きしめるべきだろう。
なのに、彼女は歓迎されていない。
その痛みは、誘拐そのものよりも、よほど鋭いのかもしれない。
そこへ自分は、塩を塗った。
エレベーターに人が出入りし、やがて扉が閉まる。陸川雅樹の視界から、美琴の姿が完全に遮断された。
背後にいた研修医が、腑に落ちない顔で言った。
「陸川教授、さっきの方……患者さんですか? あんな敵意、すごかったです。教授が『やぶ医者』なんて言われるの、初めて聞きました。名誉毀損で訴えられますよ」
陸川雅樹は我に返る。
――やぶ医者。
その単語が脳裏をよぎった途端、さっきの後悔は霧散した。
「……あいつは病気だ」
研修医は「精神的に」という意味だと受け取り、納得したように頷く。
「なるほど……」
九条美琴は、検査を滞りなく終えた。
幸い、エイズ感染は否定された。
だが安心しきれる話でもない。身体は、確かに壊れていた。
長期の栄養失調で体重は低すぎ、下肢の筋肉は萎縮。低蛋白血症に、重度の貧血。
「それから、関節炎と慢性湿疹、脚の浮腫もありますね……」
医師は検査結果を見終えると、彼女を改めて観察した。手首に残る傷痕に目が止まり、顔つきが少しだけ硬くなる。
「お嬢さん……家庭内で暴力を受けていませんか。警察に相談できますよ」
美琴は感謝の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。もう通報はしました。身体をどう整えればいいか、それだけ教えてください」
「そうですか。なら、よかった」
医師は処方箋を書きながら、栄養をつけること、無理のない範囲で筋力を戻すことを丁寧に言い含めた。
美琴は薬を受け取り、病院を出る。
外来ロビーを通りかかった、そのとき。
サイレンを響かせ、救急車が病院へ滑り込んできた。
医療スタッフがストレッチャーを猛スピードで押し込む。乗っている負傷者は全身血まみれだ。
人波がさっと割れ、美琴も反射的に端へ退いた。
相当まずい状態なのだろう。ストレッチャーの上では医師が心肺蘇生を続けている。白衣に血が飛び散っても構わず、ただ必死に。
美琴は眉を寄せ、駆け抜けていくストレッチャーを目で追った。驚きが、じわりと滲む。
死神と競争しているその白衣の天使が――やぶ医者の陸川雅樹だったからだ。
陸川雅樹の顔は相変わらず淡々としている。むしろ普段より威圧感があり、冷徹なほど引き締まっていた。
救命処置を続けながら、矢継ぎ早に指示を飛ばす。周囲のスタッフは息の合った動きで応じ、現場は緊迫しているのに混乱がない。
ストレッチャーが救急処置室へ消えて、ようやくロビーが日常を取り戻した。
美琴は視線を引き戻す。すると正面の壁にある大型モニターに、専門医の紹介が流れていた。
先頭に表示されたのは、陸川雅樹。
ざっと目を走らせる。
肩書きと受賞歴がずらり。国内初の術式もいくつか。国際医療団体の発起人、名誉会長――そんな文字まで並んでいる。
美琴は鼻で笑い、病院を出た。
金があるって、いい。
少しでも腕があれば、いくらでも宣伝できる。称賛を集め、資源をかき集めることもできる。
病院を出た美琴は、まず腹ごしらえをした。久しぶりに、ちゃんと「美味しい」と思える食事。
それから小切手を換金し、500万を口座へ入金する。
バッグに残った現金は50万近く。美琴は迷いなく、マセラティを予約した。
車がないと、外出が不便すぎる。
「車両価格は200万。こちらが40万で、残りの160万は納車のときに支払います」
予約金を差し出し、ショルダーバッグを背負い直す。
札束を何束も並べられ、販売員たちは目を丸くした。
その後は店長まで出てきて、過剰なほど丁寧に、九十度で頭を下げて見送ってくれた。
夕方、美琴は家に戻った。
広末蓉子は彼女を見るなり、相変わらず微妙な表情を浮かべる。
だが、美琴が髪を切り、新しい服と靴を身につけ、買い物袋をいくつも提げているのを見て、だいたい察したようだった。背負っているリュックも、いかにも高そうだ。
「美琴、買い物に行ってたの? 出かけるなら家に言ってくれれば……みんな心配してたのよ」
広末蓉子は笑みを作りながらも、娘とは数歩の距離を保ったままだ。
美琴は唇の端だけを引く。
「私のこと、まだ覚えてたんですね。ありがとうございます」
「……」
広末蓉子の顔が引きつり、すぐに眉が寄った。
「それ、どこからお金が出たの?」
三年前、長女が誘拐され行方不明になったあと、美琴名義の口座は凍結し、紛失扱いにしていた。資金流出を防ぐためだ。
昨日戻ってきたばかりの美琴が、家に金をせびったわけでもない。
美琴は淡々と答える。
「宝飾品、全部売りました」
「なに……?」
広末蓉子は蒼ざめ、次の瞬間には怒りに染まった。
「あなた……お金なら言ってくれればよかったでしょう! 出さないわけじゃないのよ! あれは高価なものばかりなのに、中古で売ったら損するじゃない!」
美琴は心の中で冷笑した。
――本当に娘だと思っているなら、昨夜の時点で金の話をするべきだった。
こっちから頭を下げて、もらいに来いって?
美琴は広末蓉子を見据え、どうでもよさそうに言う。
「人に触られた私物、気持ち悪いんです。売って正解でした」
「あなた――!」
広末蓉子は言葉を失った。
美琴は帰宅前に夕食を済ませている。これ以上言い合う気にもならず、リビングを横切って、1階の家政婦部屋へ向かった。
だが、入って二秒もしないうちに、冷えた顔で出てくる。目が鋭く光った。
「……私のベッド、どういうこと?」
ちょうど階段を降りてきた九条瑞希が、甘ったるい顔のビション・フリーゼを抱いていた。菅野優斗も、いつの間に来ていたのか、彼女の隣にいる。
美琴を見た瞬間、男の瞳が熱を帯び、視線が吸い寄せられた。
「お姉ちゃん、おかえり。次から出かける前にお母さんに言ってあげて。お母さん、丸一日ずっと心配してたんだよ」
瑞希は笑う。従順そうで、薄っぺらい笑顔。
美琴は返事すらしない。荒々しい足取りで近づき、瑞希の髪を掴んで家政婦部屋へ引きずった。
「美琴!」
菅野優斗が止めようとしたが、間に合わない。
「あっ! なにするの、姉さん!」
瑞希は不意を突かれて悲鳴を上げ、抱えていた犬を落とした。犬は床に叩きつけられ、「キャン!」と甲高く鳴く。
九条家の面々はちょうど食堂へ向かっていたところで、全員が凍りついた。
「美琴、なにしてるの!」
「美琴、放しなさい!」
「九条美琴! 何の真似だ!」
皆が駆け寄るより早く、美琴は瑞希の髪を引きずるようにして家政婦部屋へ押し込み、その顔をベッドに押しつけた。
瑞希の口元の先には――犬の糞が一塊。
「あなたの犬がしたんでしょ。責任取って、舐めて片づけなさい」
美琴は瑞希の横顔を床へ押さえ込み、目の色ひとつ変えない。冷たく、暗い。
九条家の人間が雪崩れ込もうとする。
だが家政婦部屋は狭い。ベッドと雑多な荷物で埋まり、残るのは細い通路だけ。押し合いになって入れない。
一番近かった菅野優斗が腕を伸ばし、美琴を引き剥がして瑞希を抱き起こした。
瑞希は糞の臭いと光景で感覚が支配され、えずき続ける。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。
「美琴、やりすぎだ! 瑞希のせいじゃないだろ! 犬は時々、粗相するんだよ。躾ければいいだけなのに、なんで瑞希を罰するんだ!」
菅野優斗は瑞希を抱きしめたまま、怒りで顔を震わせて怒鳴った。
美琴は冷笑する。
「人の威を借りて威張るのも大概にして。あんたたちが甘やかしてなきゃ、あの犬が私の部屋に入るわけないでしょ」
朝出るとき、確かに部屋の扉は閉めた。なのに。
瑞希はまだ吐き気に襲われている。
彼女はふらふらと菅野優斗を押しのけ、部屋を飛び出した。広末蓉子が青ざめて追いかける。
通路が空き、九条直哉が押し入ってきた。
「九条美琴!」
反抗的な長女を前に、怒りが沸騰したのだろう。九条直哉は手を上げ、平手打ちを振り下ろそうとする。
「九条おじさん、やめてください!」
菅野優斗が慌てて前へ出て、美琴を抱き込むように庇った。
――バシン!
重い音。
九条直哉の平手は、菅野優斗の後頭部に叩きつけられた。
「優斗! お前は関係ない、出ていけ!」
九条直哉は指先を痺れさせ、顔を真っ赤にして怒鳴る。
菅野優斗の手は、美琴の肩を掴んだままだった。
その瞬間、骨ばった感触が掌に刺さる。痩せすぎている。抱きしめるどころか、折れてしまいそうだ。
胸が痛んだ。
菅野優斗は九条直哉を振り返り、必死に取りなす。
「九条おじさん、美琴は戻ってきたばかりです。外であれだけの目に遭って……心に傷があって当然です。少し過激になってしまっただけで……」
九条直哉は腰に手を当て、もう一方の手でまくし立てる。
「病気なら医者に行け! 家で暴れる理由になるか! こっちは何も負い目なんかない!」
その怒号を聞いて、美琴の心はまた、ばらばらに砕けた。
悪いのは瑞希なのに、誰も瑞希を叱らない。
怒りの矛先は、いつだって被害者の自分に向く。
美琴は菅野優斗を見上げた。彼の顔には「可哀想だ」という色が浮かんでいる。
それが、たまらなく気持ち悪い。
美琴は微笑んで言った。
「ねえ、義弟さん。私、エイズなんだけど。抱きしめてて平気?」
菅野優斗の顔が固まる。手が感電したみたいに離れ、身体ごと一歩引いた。
「美琴……」
低い声が漏れる。
九条直哉も、怒りでその件を忘れていたのだろう。長女に突きつけられ、反射的に後退した。
――さっきの平手が顔に当たらなくてよかった。もし感染したらどうする。
「もういい。お前とは話にならん。この部屋から出るな。どこにも行くな!」
命令だけ投げつけ、九条直哉は出ていった。
菅野優斗も顔色を悪くしたまま、すぐ後を追う。
夕食どころではない。
九条瑞希は泣きながら髪を洗い、身体を洗い、歯を磨いた。三回繰り返しても不安で、まだ自分に糞の臭いが残っている気がした。
菅野優斗もシャワーを浴びて着替え、ネットで調べた。
――エイズ患者を抱きしめたら感染するのか。
一家が落ち着いたのは、外がすっかり暗くなってからだった。
佐倉さんが料理を温め直したが、誰も食欲がない。
とくに瑞希は、口元にあの塊が迫った感覚が蘇るたび、席を立って吐いた。胃に入っているのは汁物くらいで、出るのは酸っぱい液体ばかり。
だが、それで終わりではなかった。
食後、菅野優斗は帰ることになった。
瑞希の様子が悪いため、婚約者を気遣って二階の部屋まで付き添い、寝かしつけてから帰ろうとしたのだ。
ところが。
瑞希が布団をめくり、腰を下ろす前に――目に入った光景で、再び絶叫した。
声が裏返り、屋根を突き破りそうな叫び。
ベッドの上に、また糞が一塊。
しかも、美琴のベッドにあったものより大きい。
「いやあああああ――!」
瑞希は頭を抱えて叫び、足から崩れて吐き続けた。
だが夜はほとんど食べていない。吐けるものはなく、胃酸だけがこみ上げる。
叫び声に駆けつけた九条家の面々も、怒りで血圧が跳ね上がった。
「九条美琴だ! 絶対に九条美琴の仕業だ!」
九条柏人が憤怒の形相で階段を駆け下り、家政婦部屋の扉を蹴り開けた。
