第7章
九条美琴がシーツを替えていると、部屋のドアがいきなりドンッと蹴り開けられ、思わず肩が跳ねた。
振り返った彼女は、驚くほど落ち着いた声で言う。
「兄貴、何か用? あ、妹が叫んでるの聞こえたけど……何があったの?」
九条柏人は、そのまま突っ込んで美琴を叩きのめしてやりたい衝動に駆られた。
だが――エイズだという噂が頭をよぎり、途端に腰が引ける。むしろ一歩、後ずさった。
「美琴! お前、やりすぎだ! 瑞希のベッドに犬のクソを置いたの、お前だろ!」
九条柏人は虚勢を張った怒鳴り声で詰め寄る。
九条直哉と菅野優斗も階下から上がってきた。九条瑞希のために「筋」を通させるつもりらしい。
九条美琴は眉を寄せ、心底わからないという顔をした。
「何の話? どこの犬のクソ?」
九条直哉が吐き捨てる。
「とぼけるな! お前以外に誰がやるんだよ!」
美琴は小さく首を傾げた。
「私、外に出てないけど。何ができるの? みんなリビングにいたよね。私が出ていくの、見た?」
「……」
男たちは一斉に言葉を失った。
菅野優斗が苦し紛れに聞く。
「じゃあ、お前の部屋の犬のクソは?」
九条美琴はゴミ箱を持ち上げ、そのまま彼らの鼻先へ差し出した。
「ほら。食べる?」
ゴミ箱の中身を見た九条直哉父子と菅野優斗は、顔色がさっと青ざめた。まるで自分が口にしたかのような表情だ。
九条美琴はくるりと背を向け、部屋へ戻ってシーツ替えを続ける。ゆったりした声で言った。
「子犬って、たまに聞き分けないでしょ。粗相することもあるし。犬のしつけは、飼い主がやればいいじゃない。なんで私に八つ当たりするの?」
さっき菅野優斗が口にした言葉を、そっくりそのまま返してやったのだ。
三人の男は顔を見合わせ、奥歯をぎりっと噛みしめる。怒りで震えているのに、どうにもできない。
やったのは九条美琴に決まっている。
だが証拠がない。どうやってやったのかもわからない。
――山奥の僻地から戻ってきて、何か妙な術でも身につけたんじゃないか。
そんな荒唐無稽な疑いまで浮かぶ。
だって、どうやって誰にも気づかれず、九条瑞希のベッドに犬のクソを――?
わからない。
結局、男たちは引き下がるしかなく、瑞希を宥めるためにまた二階へ戻っていった。
九条美琴はシーツを替え終えると、ゴミをまとめて外へ捨てに行った。
戻る途中、裏庭にある犬専用の豪邸が視界に入る。
彼女の口元が、ほんの少しだけ持ち上がった。
二階では、九条瑞希がまだ泣きじゃくっている。
誰も知らない。
食事中、九条美琴は家政婦部屋の狭い窓からするりと外へ抜け出していた。骨と皮だけみたいに痩せていたからこそ通れたのだ。少しでも肉がついていたら、途中で引っかかっていただろう。
犬専用の豪邸の中で、彼女は犬のクソをひと塊、掘り出した。
それから豪邸を足場にしてよじ登り、二階の九条瑞希の部屋へ――。
拐われていた三年間、彼女は数え切れないほど逃げようとした。塀を越える動きなんて、もう身体が覚えている。
たかが二階。
――ふん。
陸川雅樹は交通事故で重傷を負った患者の救命に当たり、手術は六時間に及んだ。終わったのは夜八時過ぎ。
手術自体は成功。だが患者はまだICUにおり、まずは二十四時間の危険な山を越えなければならない。
諸々の指示を出し終え、ようやく退勤。
指導教員の息子であり、親友でもある高坂湊が車で迎えに来ていた。
「陸川教授、お疲れさまでした。また一つ、尊い功績を残されましたね」
高坂湊はそう言って笑い、副席のドアをさっと開ける。腰巾着みたいに気が利く。
陸川雅樹は疲れを滲ませつつ、淡々と答えた。
「まだわからない。あとは本人の運だ」
高坂湊はドアを閉め、運転席に回り込むと自信満々に言う。
「先生がいる限り、死神には持っていかせませんよ。俺は信じてます」
そう言いながらスマホを取り出し、メッセージを流し見して黙り込む。
「何食べる?」と高坂湊。
「何でも」
「じゃ、こっちで決める」
陸川雅樹はまた黙り、スマホ画面を見つめた。何を見ているのか、眉間がわずかに寄る。
赤信号で停まった瞬間、高坂湊が横目で覗き込み――ぷっと吹いた。
「また全部、緑?」
陸川雅樹が見ていたのは株口座。保有銘柄が見事に緑一色だった。
「……」
陸川雅樹の顔がさらに険しくなる。
高坂湊は笑いを堪えながら言う。
「最近、相場悪くないですよ? 俺なんて今月だけで数百万プラスです。なのに、どうしてそこまで負け続けられるんですか。逆に才能。どうやってそんな精度でボロ株ばっか掴むの?」
「前見て運転しろ!」
陸川雅樹が苛立ちをぶつける。
だが高坂湊は怯まない。
「ほんと、人って完璧じゃないんだなあ。先生、学生の頃からずっとトップで、医学部行ってからは天才扱いで。うちの親父なんて今でも言ってますよ。四十年やってきて、一番才能があって、一番努力する学生だって」
褒めちぎったあと、高坂湊はニヤッとする。
「でも人生にブラックホール、あったんですね。この金融センスの低さ、底なしだ。ねえ、年収ぜんぶ株に吸い込まれてません?」
「誰が。勝った時だってある。最近忙しくて見れてないだけだ」
陸川雅樹は言い訳めいたことを口にする。
「はいはい。強がり」
「……」
陸川雅樹は株の掲示板を眺め、口論する気も失せていた。
そのとき、LINEの通知が鳴る。
開くと、以前助けを求めてきた株仲間からだった。
「陸川先生、木下夫人が戻ってきたの知ってます? みんなグループで盛り上がってるんですけど、先生いないから。忙しいと思って、一応」
陸川雅樹は無表情のまま、短く返す。
「うん。今、仕事終わった」
画面を閉じ、グループは開かずに、ついでのように掲示板で「木下夫人」を検索した。
――やはり。
三年沈黙していたアカウントが更新されている。
「生まれ変わって帰ってきた」
陸川雅樹の理解では、重い病気を患い、三年の治療を経て快癒した――そういう意味だろう。
会ったこともない相手だ。ほとんど他人。
それでも、胸の奥がふっと軽くなる。
医者として、人が生きていることは、それだけで嬉しい。身内だろうと、赤の他人だろうと。
口元にわずかな笑みが浮かび、彼はLINEを開いた。
高坂湊がその変化を見逃さず、面白がって聞く。
「負けてるのに笑うんですか?」
陸川雅樹は淡々と返した。
「勝手だろ」
「はいはい」
LINEの「全員投資の達人!」は案の定、賑やかだった。
メンバーは全国ばらばらで、現実では誰一人会ったことがない。
株の掲示板で話すうちに波長が合い、誰かが音頭を取って作ったグループで、人数は六人。うち三人がJ市、残りは地方。
私生活には踏み込まず、互いを掲示板のIDで呼び合い、相場観だけを交換する。
陸川雅樹のIDは「白衣の王子様」。医者だと察されていた。
一年前、グループ内の地元勢の一人が彼に個別で連絡してきた。家族が大事故で瀕死、凄腕の専門医に繋げないか――と。
陸川雅樹は自ら動き、その命を救った。
それ以来、その人物とは面識もできた。
相手は陸川雅樹が目立つのを嫌うと知っているため、グループで詳しい素性は一切語らず、「白衣の王子様は命の恩人」とだけ伝えている。
今、グループでは「TAKA」が言っていた。
「さっき白衣の王子様に連絡したけど、今やっと仕事終わったって。たぶん手が離せない」
「いちいち」
「白衣の王子様って冷たくない? ほとんど喋らないし。そもそも景輔がめっちゃ口説いて、やっと入ってくれたんだよね」
「景輔」
「忙しすぎてチャットできないってさ」
「TAKA」
「俺が証人! あの人マジで忙しい。ほんとに忙しい!」
「鈴木コーチ」
「木下夫人、ひと言だけ投下して消えたけど大丈夫? 俺最近けっこうやられてる。ご指南頼む」
「木下夫人」
「いるよ。三年放置してた口座、案外増えてた」
「いちいち」
「木下夫人、この三年何があったの? 病気だった? 本当に心配してた」
「木下夫人」
「心配してくれてありがとう。この三年はいろいろあったけど、幸いにも危機は乗り越えた」
陸川雅樹は流れを追い終えると、指先で短く打ち込んだ。
「無事に戻ってこられて何より」
