第8章

「いちいち」

「きゃー! 白衣の王子様、降臨! やっぱ木下夫人って魅力すごいわ!」

「景輔」

「前から思ってたけどさ、このグループの中で白衣の王子様が“ちょっとだけ”優しいの、木下夫人くらいじゃね?」

「鈴木コーチ」

「この二人、会うとすぐ噛みつき合うんだよな」

陸川雅樹は、皆が何を言いたいのか察していた。スマホを見下ろし、薄く笑う。

「白衣の王子様」

「噛まれるの、羨ましいの?」

「鈴木コーチ」

「いやいや、怼るなら木下夫人にしとけって」

ベッドに凭れてスマホを抱えていた九条美琴は、「白衣の王子様」が現れたのを見て、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「木下夫人」

「で、この三年で100万くらい損した?」

「TAKA」

「木下夫人、攻めるなあ……よりによってその話題ぶっ込む?」

陸川雅樹は画面を睨み、口角を冷たく吊り上げる。

「白衣の王子様」

「おかげさまで、ちょっと損しましたよ。40%もね」

「景輔」

「珍しっ! あのクールな白衣の王子様がネタに乗ってきた! はははは!」

「いちいち」

「出た出た、犬猿の仲コンビ! さ、特等席で観戦しよー」

「白衣の王子様」

「これ以上ふざけるなら、退会する」

「いちいち」

「ごめん、やめる!」

九条美琴はその一言を見つめ、胸の奥で鼻を鳴らした。

――ふん。何様。

そもそも「白衣の王子様」なんて名前、どれだけ自意識過剰なら付けられるのよ。

人って、足りないものほど欲しがる。

現実で、見た目も雰囲気も“ちゃんとしてる医者”なんて、九条美琴が知る限り陸川雅樹くらいだった。

若いのもある。何より、陸川家の三男様。

仕事だって「暇つぶし」みたいなもの。生活に追われるわけでもないし、身だしなみにも金と時間をかけられる。そりゃ、普通の人とは格が違う。

ネットの向こう側では、たぶん中年のオッサンが、こちらを見下して悦に入ってる。

そう思った途端、嘲笑しか出てこなくなり、会話を続ける気も失せた。

ちょうど医者にも「体を休めて、早寝早起き」と言われている。

九条美琴はスマホを閉じ、そのまま眠りに落ちた。

一方の陸川雅樹も、レストランに着いて食事の支度をしながら、もうグループには戻らなかった。

LINEに通知が一件。

手に取って確認すると、さっきのメンバーからだ。

佐藤隆司――グループ内ではTAKA。

「陸川先生、さっきの言い方、木下夫人に恥かかせた感じになってません? あれ言ったあと、黙っちゃいましたよ」

陸川雅樹は鼻で笑う。

「相手をお嬢ちゃん扱いするな。夫人って呼ばれて、株の話まで分かるなら、少なくとも四十、五十だろ。冗談にも限度がある」

「TAKA」

「それはそうっすね。いちいちと景輔、いつも勝手にくっつけようとするし」

翌日。九条美琴はいつも通り早起きした。

暑くなる前にと、外へ出て三十分ほど軽く体を動かす。

栄養失調がひどいから、運動も段階的に――医者の言葉を守って、無理はしない。

戻ると、庭先で車が二台、前後して出ていった。

九条直哉の車と、九条柏人の車。

二人とも彼女の姿を見ていたはずなのに、窓を下ろして声をかけることすらない。

九条美琴も気にせず、そのまま屋内へ入った。

ダイニングでは、広末蓉子と九条瑞希が朝食中だった。

九条瑞希は美琴を見るなり、露骨に目をひんむく。

広末蓉子も氷みたいな顔で、長女に声ひとつかけない。

昨夜の「犬のフン事件」で、家中がまだ怒っているのだろう。

完全に、彼女を“空気”扱いだ。

九条美琴は図太く、何食わぬ顔でテーブルにつくと、肉まんを一つ取って食べ始めた。

広末蓉子と九条瑞希は、びくっと立ち上がり、露骨に距離を取る。

九条美琴はくすりと笑う。

「安心して。空気感染はしないから」

九条瑞希が歯を食いしばる。

「病気じゃないって言ったでしょ」

「病気だって言ったの、そっちじゃない」

九条美琴は肉まんをかじり、さらりと返す。

「仮に私がエイズでも、空気じゃうつらない。――ほら、あんたの婚約者の“おじさん”が、そう言ってたでしょ?」

広末蓉子は悔しさに顔を歪め、それでも言い聞かせるように言った。

「美琴。今夜、お兄ちゃんの彼女が食事に来るの。余計なことはしないで。お兄ちゃんの縁談を壊したら許さないわ」

九条美琴は少し目を丸くした。

「私、もうすぐ義姉ができるの?」

広末蓉子は唇を引き結び、答えない。代わりに冷たく念を押す。

「あなたは部屋から出ないで。相手を驚かせたら困るの」

九条美琴は黙ったまま、朝食を続けた。

庭のほうで車の音がして、すぐに佐倉が姿を見せる。やはり距離を取りながら。

「奥様、水野さんがいらしてます。お嬢様にご用件だそうで」

九条美琴が眉を上げる。

「水野さんって、どの水野さん?」

「水野莉央さんです」

「莉央が来たの!?」

九条美琴はぱっと立ち上がり、外へ駆けた。

水野莉央は親友だ。姉妹以上に近い存在。

庭先、古いベンツから降りてくる彼女の姿が見えた瞬間、九条美琴は嬉しくて足を速め――そして、ふと止まった。

莉央が家まで来たということは、私が戻ったのを聞いたということ。

なら、外の噂も知っているはずだ。

――エイズだの、ジジイの子を産んだだの。

嫌われたらどうしよう。

軽蔑されたら――。

「美琴!」

水野莉央は九条美琴を見つけるなり、堪えきれない様子で駆け寄り、勢いよく抱きしめた。

「うそ……! 本当に美琴だ! 生きてた! 帰ってきたんだね!」

莉央は一気に泣き崩れ、嗄れた声で叫ぶ。

九条美琴は抱きしめられた勢いでよろけ、心臓が震えた。

――嫌がってない。避けてもいない。

知らないのか、それとも、怖くないのか。

「莉央……」

九条美琴の目も、熱く潤む。

水野莉央は少し体を離し、彼女を頭の先から足元まで見つめていく。

そして、また涙をこぼした。

「痩せすぎ……! 絶対、すごく苦しかったでしょ……腕、こんなに……傷だらけ……」

泣きながら、莉央は美琴の腕の傷跡にそっと触れる。痛いほどの優しさだった。

玄関先でその光景を見ていた広末蓉子と九条瑞希は、揃って眉をひそめる。

九条瑞希が数歩前に出て、距離を保ったまま声を張った。

「水野莉央! よく抱きつけるね。命いらないの?」

水野莉央は視線を移す。

「……どういう意味?」

「エイズなんだよ! ジジイの子も産んだんだって! それに臭くない? 三年も豚と一緒に暮らしてたんだよ!」

九条瑞希は一語一語に力を込め、周囲に聞かせるみたいに言い切った。

水野莉央は九条美琴を見て、眉をきゅっと寄せる。

「帰ってきたのに、そんな扱いなの?」

九条美琴は小さく笑った。

「気にしないで」

それから、確かめるように尋ねる。

「でも……本当に怖くないの? 病気、うつるかもしれないって」

水野莉央はきっぱり言った。

「頭使えば分かるでしょ。抱きしめたくらいで死なない」

九条美琴は、また胸がいっぱいになった。

「水野莉央、あんた……万が一ってこともあるって、聞いたことないの?」

九条瑞希はなおも食い下がる。

だが水野莉央は相手にしない。九条美琴の手を取った。

「外で話そう。座れるところ行こ。言いたいこと、山ほどある」

九条家の人間が親友をこんなふうに扱うなら、最低限の礼儀すら払う必要はない。

水野莉央は広末蓉子に挨拶もせず、そのまま九条美琴を車へ乗せた。

ベンツが遠ざかるのを見送りながら、九条瑞希が広末蓉子に言う。

「ママ、水野家に連絡したほうがいいんじゃない? もし病気うつったら、こっちのせいにされる」

広末蓉子は頷いた。

「電話は入れるべきね。それも責任よ」

「でしょ! 水野莉央、ほんと頭おかしい」

水野家もJ市の名家だ。

ただし、水野莉央は“お嬢様”のはずなのに、家の中での立場は弱い。

両親が事業で成功したあと、父は浮気して男女の子どもまで作り、離婚は泥沼になった。

浮気相手が後妻に収まり、前妻の娘である莉央を露骨に疎む。莉央は家で、常に顔色をうかがって生きてきた。

「今、院の寮に住んでるの。昨日、実家に顔出して初めて“美琴が帰ってきた”って聞いた。でも連絡つかなくて……朝イチで来た」

運転しながら、莉央は何度も横目で九条美琴を見る。

見れば見るほど涙が出て、声が震えた。

「生きててくれて……ほんと、よかった」

九条美琴の胸がじんと熱くなる。

「莉央……私のこと、嫌がらないの、あなただけ」

「嫌がるわけない」

莉央は悔しそうに唇を噛む。

「私がもっと金あって、外に家でもあったら、今すぐ連れ出して一緒に住むのに。あんな家で、あんな扱い受けなくて済むのに!」

九条美琴は、親友の車をちらりと見た。古い型だ。たぶん家で回ってきたものだろう。

莉央の置かれている状況が、透けて見える。

「莉央。私、お金ならある。かなりある。でも、今は出ていけない」

九条美琴はまっすぐ言った。

「なんで?」

水野莉央が驚いて目を見開く。

九条美琴の表情が、すっと冷える。

「私を人さらいに売った黒幕は、九条瑞希。でも、今は証拠がない。法で裁かせるには足りない。だから私は――」

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