第1章

「美月、おまえ正気なの!? 今日は美咲の誕生日よ! ケーキを台無しにしたうえ、ナイフで怪我までさせるなんて!」

掌にずきん、と鋭い痛みが走った。

橘美月は床に膝をつき、右手で体を支えようとして――砕けた陶片の山に掌を突っ込んでいた。

痛みが生々しすぎて、意識が一瞬だけぐらつく。

――私、もう死んだはずじゃなかった?

全身傷だらけのまま麻袋に詰められて、海に投げ捨てられて。

勢いよく顔を上げる。

吐き気がするほど見慣れた顔が、目の前にずらりと並んでいた。

長男の一ノ瀬隼人が一ノ瀬美咲を腕の中にかばい、顔色を蒼くしてこちらを指さし怒鳴る。

「美月! 何やってんだ!」

次男の一ノ瀬拓真は露骨に顔をしかめた。

「美咲への嫉妬が今に始まった話じゃないのは分かってる。でも今日は何の日だと思ってる。よくそんなことができたな!」

三男の一ノ瀬拓海は、さっき彼女を突き飛ばした手をまだ引っ込めきれていない。見下ろす目は氷のように冷たい。

「おまえがそんなに性根が腐ってるって分かってたら、最初から家に戻さなかった」

そして――この場の発端であり、同時に被害者面をしている一ノ瀬美咲は、右手を押さえて涙をにじませていた。

「お兄ちゃんたち、お願い……お姉ちゃんを責めないで……。私が不注意で、ナイフをちゃんと持てなくて……。お姉ちゃんは悪くないの……」

母の一ノ瀬由利が美咲の背を痛ましげに撫で、顔を上げる。

美月に向けられた視線は、嫌悪と冷たさが入り混じっていた。

「美月、美咲を見なさい。なんて聞き分けのいい子なの。あなたは誕生日ケーキを壊して、手まで傷つけたのに、それでもあなたをかばってる。少しは美咲を見習えないの? もっと“いい子”になりなさい」

美月はこの見慣れすぎた光景を見つめながら、泣くべきか笑うべきか分からなくなった。

――重生した。

美咲の二十二歳の誕生日。劇団の首席を奪われる、その日に。

美月は一ノ瀬家の本当の娘だ。

由利が難産で病院に搬送されたあの日、人手不足の混乱の中で新生児が取り違えられた。美月と美咲が、入れ替わってしまったのだ。

それから十八年。

一ノ瀬家の当主が白血病を発症し、適合する骨髄が見つからない。そこでようやく、美咲が実子ではないと判明し――美月が見つかった。

家に迎え入れられた。けれど歓迎などされなかった。

一ノ瀬家の目に映っているのは、身の上を知って打ちのめされ、うつ病になった美咲だけ。美月は三年もの間、必死にへりくだって機嫌を取り続けた。それでも彼らは、擦り切れた靴みたいに平然と捨てた。

美咲が黒手党を怒らせたときもそうだ。

兄たちは美咲を守って逃げ、美月だけを置き去りにした。

拉致され、三年にわたって拷問を受けた。身体中、まともな肉の残る場所なんてなかった。

最後は首領が飽きて、麻袋に詰めて海へ――。

美月は血の滲む右手を見下ろす。

前世、この手は治療が遅れて考査に間に合わず、首席も逃した。

――今世は違う。

首席も、命も。全部、自分の手でつかみ取る。そして、私を壊した連中には――必ず代償を払わせる。

「黙ってないで謝れ! 美咲に!」

隼人が乱暴に美月を引き起こした、その瞬間。

美月は反射で腕を振り抜き、思いきり平手打ちを叩き込んだ。

パンッ、と乾いた音が響く。

隼人の顔が横に弾け、目を見開いた。

「……俺を殴った?」

美月は冷たく笑った。

「殴ったわ。目を覚ましなさいよ。あんた、そのでかい目は飾り? 目がついてるのに見えないの? 美咲が自分からぶつかってきたの、分からなかった?」

拓海が歯ぎしりする。

「まだ言い訳する気か? 美咲は弾く側だぞ。わざと自分の手を傷つけるわけないだろ」

美月は視線を泳がせる美咲へ目を向け、皮肉を込めて言い切った。

「そこが賢いのよ。怪我したフリはする。でも大した傷にはしない。だって分かってるもの。あんたたちみたいなバカは、皮が少し切れただけでも『可哀想』って騒いで、事情も聞かずに私を叩くって」

美咲の瞳に、一瞬だけ怯えが走る。だが次の瞬間には涙が増えた。

「お姉ちゃん……どうしてそんなふうに思うの……。わ、私は……そんな……」

美月は一切揺れない目で見返した。

美咲は昔から、哀れみと無垢を演じるのがうまい。骨の髄まで腐った本性なんて、とっくに見抜いている。

けれど――蠢くように愚かで、都合よく盲目な連中は、どうしても見ようとしない。

隼人は深く息を吸い、警告するような目になった。

「美月。俺を殴ったことは見逃してやる。だが美咲への侮辱は許さない」

隼人は言葉を切り、冷たく続ける。

「最後に一度だけチャンスをやる。美咲に跪いて謝れ。それから三日後の首席考査には出ないと約束しろ。そうすれば今日の件は水に流す」

美月の瞳に、ひやりとした光が灯った。

――やっぱり。

誕生日会の本当の目的は、これだった。

ケーキ騒動も、怪我の濡れ衣も、美咲とこの兄たちが共謀した芝居。家中の糾弾で美月を折らせ、チェロ首席の座を差し出させるため。

前世の私は、愚かにも譲った。

でも今世は――絶対にない。

「首席は、実力で取るものよ」

美月は一語ずつ噛みしめるように言い放つ。

「欲しいなら、自分で勝ち取りなさい」

美咲は涙をこぼしながら首を振った。

「お姉ちゃん、私は……奪いたいなんて思ってない。ただ……羨ましくて。お姉ちゃんみたいに、舞台に立ちたくて……」

拓真がすぐさま庇う。

「美咲、そんなふうに頼む必要ない。こいつが少しでも姉らしいなら、自分から譲るべきだろ」

拓海も続いた。

「美月、おまえは美咲を見てみろ。美咲はいつもおまえのことを考えてる。なのにおまえは、いつも美咲に突っかかる。心ってものがないのか」

由利がため息を落とす。

「美月、少し譲ってあげられないの? 美咲は一ノ瀬家の娘という立場を失ったのよ。あなたが少し埋め合わせてあげてもいいじゃない。隼人も言ったでしょう、もっといい楽団を探してあげるって」

それを聞き終えた瞬間、美月は耐えきれずに笑った。乾いた、嘲りの笑いだ。

「いくつか訂正するわ」

「最初から最後まで、私が美咲の何かを奪ったことなんて一度もない。むしろ美咲は、私の代わりに一ノ瀬家で十数年もぬくぬく生きてきた」

「最大の被害者は私よ。彼女に借りもないし、あんたたちにも借りはない」

そして――美月は隼人をまっすぐ見据える。

「『もっといい楽団』って、どこ? 国内でフィルハーモニー管弦楽団より上があるの? それとも私を国外にでも追い出すつもり? 目の届かない場所へ」

隼人の顔色が変わる。

「勝手なことを――」

美月は鼻で笑った。

「勝手? この半年、私のソロ公演は潰した。国際コンクールは『出る必要がない』って言った。私が自分で取った出演の話まで、全部美咲に回してた。私が知らないとでも思った?」

リビングの空気が、ひゅっと凍りついた。

隼人は反論できず、口元だけが歪んだ。

美月は彼から視線を外し、そのまま玄関へ向かう。

由利が呆然と声を漏らす。

「……どこへ行くの?」

美月は立ち止まらない。振り返りもしないまま、低く、淡々と告げた。

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