第十章

「お二人とも異議はありませんね。それでは美咲選手、先に演奏をお願いします」

司会者がマイクを差し出す。

美咲は大きく息を吸い込んだ。

「私が演奏する曲は『白鳥』です」

その一言で、美月の視線がすっと冷えた。

――『白鳥』。

それは、美月が最初に習ったチェロ曲。

そして前世、美咲が『星のしらべ』の舞台で一躍脚光を浴びた、あの曲だ。

美咲は泣ける身の上話をでっち上げた。取り違えの真相を知ったあと、自分を励ますために必死で練習した曲だ、と。

世間はこぞって同情し、口々に言った。

運命に弄ばれた天才少女。可哀想だ、と。

その裏で、美月は「手段を選ばない悪女」に仕立て上げられた。

思い出が胃の底を冷やす。美月の瞳の奥に、刃のような殺気が走った。

――ならいい。

復讐の第一音は、この曲で鳴らす。

美咲は椅子に腰を下ろし、チェロの位置を微調整する。そして右手を持ち上げた。

動きがどこかぎこちない。さっきの流れで緊張しているのか。

弓が落ち、最初の音が響く。

乾いていて、硬い。

美月の口元がわずかに歪んだ。

――練習のときよりひどい。

本来なら、優雅で物悲しい旋律のはずだ。それが、美咲の手にかかると木材をギコギコ引くみたいに耳障りな音へと変わっていく。

客席がざわつき始めた。失望が、空気に滲む。

「この程度で美月と首席争い? 冗談でしょ」

「さっき同情したの返して。実力、低すぎ」

美咲は歯を食いしばり、無理やり弾き切った。

最後の音が落ちる。

しん……と、場が凍りつく。

拍手はない。

美咲は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「すみません……上手く弾けなくて……。私の手が……まだ治ってなくて、さっき弾いてたら痛くて……!」

そう言いながら掌の傷跡をそっと撫で、耐えがたい痛みを堪えるような仕草をする。

そして涙声のまま、舞台袖へ駆け下りた。

拓真がすぐマイクを掴み、怒鳴りつける。

「全部おまえのせいだ! おまえが美咲の手を傷つけたから、こんなことになったんだろ!」

「美咲が考査に出るって分かってて、あんなに強くやるなんて……どこまで心が腐ってんだ!」

蓮も眉をひそめ、美月を睨んだ。

「美月……おまえには失望した。勝ちたいからって、こんな手で美咲を傷つけるなんて」

「妹だろ。どうしてそこまでできるんだ」

客席の空気がまた傾く。美月を見る目が、露骨に刺々しくなっていく。

「そっか、手が怪我してたから……」

「勝つために手を潰すとか最低」

「やり方がえげつない」

配信コメントも荒れ、勢いは止まらない。

『#美月が妹を故意に傷つけた』が、一気にトレンド1位へ駆け上がる。

事情も知らない連中が、美月のアカウントに罵声を投げつけた。

「悪女! 音楽界から消えろ!」

「首席のために人の未来潰すとか吐き気する」

「番組降ろせ」

「美咲が可哀想。実の姉にこんなことされるなんて」

美咲は拓真の背に隠れるようにしてスマホを盗み見て、口元をほんの少しだけ吊り上げた。

美月がどれだけ上手く弾こうと関係ない。

泥をかけてしまえば、世間は自分を哀れみ、美月を叩く。

前世と同じ構図――。

美月はその光景を見つめ、胸の奥で乾いた笑いが転がった。

前世、彼女はこうして美咲と一ノ瀬家に潰された。

けれど今世は違う。

美月はマイクを手に取り、ゆっくり舞台の中央へ進む。

美咲、拓真、蓮――三人を冷ややかに見渡し、はっきりと言い切った。

「言い終わった? 演じ終わった?」

「美咲。手が痛くて演奏に影響したって言うなら――診断書でも医師の証明でも、誕生日当日のリビングの監視映像でもいい」

「どれか一つでいいから出して。私が美咲の手を傷つけたって証明できたら、今すぐ番組を降りる。二度とチェロも弾かない」

「でも証拠がないなら、それは名誉毀損。私はすぐ警察に行く。法的に責任を取らせる」

一語も揺れない、断言。

美咲の顔が強張った。

――証拠なんて、あるはずがない。

誕生日の監視映像は、とっくに隼人が消している。

診断書も、伝手で作らせた偽物だ。調べられたら終わる。

警察沙汰になれば、全部が露見する。作り上げた「設定」も、取り違えの秘密も――。

そんなこと、絶対に許せるはずがない。

美咲は唇を噛み、さらに涙を溢れさせた。

「お姉ちゃん……私、分かってる。私が憎いんだよね。私に出てほしくないんだよね……」

「分かった……私、降りる。降りればいいんだよね……?」

拓真が青ざめて声を荒らげる。

「美咲、そんなこと言うな! 降りるのはこいつだ!」

蓮もすぐに乗った。

「そうだ。美月、いい加減にしろ! 美咲がここまで追い詰められてるのに、まだ何がしたいんだ!」

美月は吐き気を噛み殺し、淡々と言った。

「何もしたくない。真相が欲しいだけ」

「証拠が出せないなら――嘘をついてるのはそっち」

「……次は、私」

それだけ言い捨て、三人を視界から追い払うように背を向ける。

チェロの前へ行き、椅子に座った。

美月は目を閉じ、深く息を吸う。

弓が落ちる。

最初の一音が、空気を切り裂いた。

伸びやかで、哀しく、それでいて折れない芯がある音。

まるで魔法みたいに、観客の心臓を鷲掴みにしていく。

演播室が、しん……と沈黙に包まれた。

曲が終わる。

十秒。

静けさのあと、雷鳴みたいな拍手が爆発した。

「美月! 美月!」

「やばい、泣いた……!」

「これが本物の首席だろ!」

美月は立ち上がり、深々と頭を下げた。

美咲はその姿を見て、嫉妬で目を赤くした。

どうして。

どうして全部、美月のほうが上なの。

どうして皆、美月を好きになるの。

美咲は歯を食いしばり、隼人へLINEを打ち込む。

『隼人、早くトレンド抑えて! 美月に流れ持っていかせないで! 真の娘の件は絶対に出しちゃダメ!』

隼人はすぐ動き、ネット工作が始まる。

美咲は画面を見つめ、ようやく息を吐いた。

収録が終わり、美月は荷物をまとめてテレビ局を出ようとした。

正面玄関は避け、人の少ない裏口へ。

――その瞬間。

路地から黒い影がいくつも飛び出し、進路を塞いだ。

先頭にいたのは拓真だ。

「美月、止まれ!」

「美咲に謝れ。じゃないと――生きて帰れると思うな!」

美月は周囲を一瞥し、冷たく笑う。

「謝る? 何に?」

「美咲が下手だっただけでしょ。私のせいにしないで」

「それに一ノ瀬家って、こんな下衆な手しかないの?」

拓真の額に青筋が浮いた。

「美月……死にたいのか!」

「チェロが好きなんだろ。今日はその手を潰してやる。二度と弾けないようにな!」

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