第3章

吐き捨てるように言い残し、彼女は一片の未練もなく去った。

――さよなら、檻。

背後で玄関の扉がドン、と重く閉まる。リビングはしばらく、しんと静まり返った。

由利はその場に立ち尽くしたまま、顔に浮かぶ怒りが、言葉にしがたい複雑さへと滲み変わっていく。唇がわずかに動き――結局、吐き捨てた。

「……恩知らずが」

隼人は眉を寄せる。どこか、おかしい。

今日の美月は、想像していたのとまるで違った。泣いて縋りつき、許しを乞い、膝をついて謝るはずだった。それなのに、あっさりと出て行った。

「親父が帰ってきて、知ったら……」

拓真が小さく呟く。声に怯えが混じった。

そもそも美月を連れ戻すと決めたのは父だ。骨髄が適合せず命を落としかけた父を救ったのも、美月の骨髄だった。そんな彼女を追い出したと知れば、父が黙っているわけがない。

隼人は眉間を指で揉み、苛立ちを隠さず言い放つ。

「放っておけ。外で行き詰まったら、どうせ惨めに戻ってくる」

そして目の奥に冷えた光を浮かべた。

「……拓真。劇団の上に話を通せ。三日後のチェロ首席考査、あいつを舞台に上げるな」

拓真は一瞬固まり、それから頷いた。

「分かった。今すぐやる」

美咲は隼人の胸に寄りかかり、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が弾んだ。

――首席は、ついに私のもの。

美月がどれほど才能に恵まれていようと、一ノ瀬家がこちらに立つ限り、勝てるはずがない。

だが表には出さず、むしろ泣き声を強める。

「私のせいで……お姉ちゃんが怒って出て行っちゃった……。お姉ちゃんが落ち着いたら、私が謝りに行って、戻ってくれるようお願いする……」

隼人は心底かわいそうだという顔で、美咲の背を叩く。

「おまえのせいじゃない。あいつが足りないだけだ」

由利も前へ出て、美咲を抱きしめる。声はやわらかく、しかし芯が冷たい。

「謝りに行かなくていい。私たちだって頼みに行かないわ。少し痛い目を見せないと、あの子は喚けば皆が言うことを聞くと勘違いするもの」

由利は美咲の髪を撫で、慈しむように続けた。

「安心して休みなさい。首席考査の準備をしっかりね。覚えておきなさい――あなたはいつだって、私の一番大切な娘よ」

美咲は由利の胸に顔を埋め、皆から見えない位置で、口元をわずかに吊り上げた。

美月が本当の娘でも関係ない。

一ノ瀬家の心も目も、いつだって自分だけに向く。指をひとつ曲げれば、最高のものが差し出される。

「……うん、ママ」

そのころ、美月は一ノ瀬家の門を出た。

冷たい風が頬を打ち、胸の奥に溜まっていた澱が、すうっと薄まる。深く息を吸い、タクシーを止めた。

「運転手さん、一番近い病院まで」

車は高級住宅街を離れていく。美月は後部座席にもたれ、目を閉じた。これからの段取りを頭の中で組み立てる。

幼いころから働く癖がある。劇団に入ってからも給料は貯めてきた。大金ではないが、しばらくは凌げる。

まずはホテルに数日泊まり、それから部屋を借りる。

手の処置を急がないと――三日後のチェロ首席考査に響く。

そう考えていると、スマホが震えた。

画面に出た名前は、黒崎蓮。

美月はその二文字を見つめ、瞳の奥に複雑な色を落とす。

蓮は幼なじみだった。

取り違えを起こした女は、夫を亡くした哀れな女で、出産後に姿を消した。美月はほどなく孤児院へ預けられ、蓮も同じ孤児院の子で、彼女より三つ年上だった。

物心ついた頃から、彼が傍にいた。

美月は顔立ちが整っていたせいで、孤児院の女の子たちに目をつけられた。蓮はいつも前に立ち、追い払ってくれた。小さな手で彼女の手を握り、「一生守る」と言った。

八歳のとき、蓮は実父に引き取られた。そのとき知った。彼は黒崎家の隠し子だったのだ。

その後、美月は佐伯先生に引き取られる。音楽の才能を見込まれ、楽器を教えられた。

必死に練習した。いつか、彼と同じ高さに立つために。

やがて一ノ瀬家に迎え入れられ、ようやく釣り合うと思って告白し、付き合い始めた――。

美月は通話を取ったが、何も言わない。

受話口から、蓮の穏やかな声が流れた。

「美月。家と揉めて、飛び出したって聞いたけど……大丈夫か?」

美月は鼻で笑った。

「誰に聞いたの?」

蓮は想定外だったのだろう。一拍置いて、それでも柔らかい調子を崩さない。

「心配してるだけだよ」

「心配?」

美月の声は淡い。

「じゃあ、何を聞いたの」

「美咲の誕生日ケーキを壊したって。それから……美咲を押したって」

蓮は短く息を吐いた。

「美月。悔しい気持ちは分かる。でも、それは違う。お願いだから戻って、謝って……首席も譲ってやって。そうすれば、家族も許してくれる」

美月は目を閉じた。

前世も、まったく同じ言葉だった。

彼が自分のためを思って言ってくれているのだと信じ、愚かにも頷いた。

結果、美咲が首席に座り、蓮と同じ舞台に立った。ネットには二人を称える言葉が溢れた。

美月は心を折られ、国外の楽団へ逃げた。ようやく芽が出始めた頃、美咲は蓮を連れて押しかけてきた。

そして美咲が黒手党を怒らせた日。

皆が美咲を守って逃げた。蓮も、その中にいた。

美月は何度も彼の名を叫んだ。助けて、と。

――彼は振り返らなかった。

痛みの記憶から抜け出し、美月は冷たく言った。

「首席は譲らない。誰にも」

蓮の声に、困った色が滲む。

「美月、意地を張るなよ。美咲はうつ病で不安定なんだ。争うべきじゃない。おまえは強いんだから、少しくらい譲ってやれないのか?」

――強いんだから、譲れ。

前世、何度聞いたか分からない。

強いから、退くべき?

強いから、犠牲になれ?

守られる価値もないから、置き去りで当然?

「黒崎蓮」

美月は彼のフルネームを呼んだ。

受話口の向こうが、わずかに息を呑む。美月がそう呼ぶことなど、なかった。

美月の瞳は凍りつく。

そして、ずっと前に決めていた結論を吐き出した。

「別れよう」

沈黙。

しばらくして、信じられないという声が返ってくる。

「……何だって?」

「別れるって言ったの」

美月は淡々と、しかし一切揺らがず繰り返した。

「今日から、あなたと私は無関係」

蓮の声が沈む。

「美月、冗談はやめろ。そんなの、聞かなかったことにする」

「冗談じゃない」

美月は可笑しくて仕方がなかった。この男は、どれほど自分が特別だと思っているのか。

「耳が遠いならもう一回言う。でも、今日は絶対に別れる」

蓮の呼吸が荒くなる。

「どうしてだ? 美月、俺たちずっと――」

美月はそれ以上聞く気がなく、刃を突きつけた。

「黒崎蓮。はっきり言ってほしい?」

「あなたと美咲がどういう関係か、あなた自身が一番分かってるでしょ」

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