第9章

『星のしらべ』の収録会場。

今回は何人もの出場者がすでにネット上で話題を集めていたこともあって、配信の視聴者数も会場の入りもかなりのものだった。

美咲は白いワンピース姿で、右手には包帯。拓真と蓮に左右から支えられ、よろめくような足取りで舞台へ上がっていく。

その瞬間、客席のあちこちでひそひそ声が広がった。包帯の巻かれた手を見て、あからさまに同情の色を浮かべる者も少なくない。

一ノ瀬家は前もって主催側に話を通していたのだろう。司会者はそれを見るや、すかさず話を振った。

「美咲さん、そのお手元、どうされたんですか? かなりお怪我がひどそうですが」

美咲はうつむき、胸の内を隠すように小さな声で答える。

「大したことじゃないんです。数日前に、ちょっと不注意で傷つけてしまって……」

司会者はさらに踏み込んだ。

「でも、かなり深いお怪我に見えます。チェリストにとって手は命とも言えるものですよね?」

美咲はゆっくり顔を上げ、涙に濡れた目で客席の美月を見た。

「実は……楽団の首席のことがあって……」

その眼差しは痛々しいほど哀れで、今にも泣き崩れそうだった。

何も言っていないようで、言うべきことはすべて言っている。

その一言で、会場がざわついた。

視線がいっせいに、出場者席に座る美月へ注がれる。

美月は椅子の背にもたれ、腕を組み、唇の端だけをわずかに上げていた。

表情には、ひと欠片の揺らぎもない。

美咲は彼女がまったく動じないのを見て、さらに続ける。

「私もお姉ちゃんも、チェロが大好きで……今回のフィルハーモニー管弦楽団の首席選考にも、二人とも応募したんです」

「お姉ちゃんは悪くないんです……私が、自分で気をつけられなかっただけで……」

「楽団の選考はうまくいきませんでしたけど、手ももうかなりよくなってきたので、それでこの番組に……」

拓真は険しい目で美月をにらみつけ、マイク越しに声を張り上げた。

「美月! おまえ、自分が何したか分かってんのか!」

蓮も眉をひそめ、美月を見つめる目にあからさまな失望をにじませる。

「美咲は……いくらなんでも、おまえの妹だろ」

その一連のやり取りだけで、観客の意識は完全に美月へ向いた。

会場ではまだ周囲と囁き合う程度だったが、配信コメント欄はすでに大荒れだ。

「うわ、こういう人だったの?」

「首席のために人の手を潰すとか最低」

「実の妹にそこまでする?」

「こんな問題ありの出場者、失格にするべきでしょ」

審査員席の面々も、そろって眉を寄せていた。

ただ一人、宗一郎だけは静かな顔のまま。

音楽は嘘をつかない。

あれほどの音を鳴らせる人間が、美咲の口にするような人間であるはずがなかった。

やがて、マイクが美月の前へ差し出される。

それもまた、一ノ瀬家の要望なのだろう。

美月は目の前のマイクを見下ろし、皮肉っぽく笑った。

どうやらこの濡れ衣を、自分にきっちり着せるまでは気が済まないらしい。

「芝居は終わった?」

「そんなに演じるのが好きなら、音楽番組じゃなくて演技番組に出れば? 一ノ瀬家なら、そのくらいのねじ込みはできるでしょ」

「美月!」

拓真が怒鳴る。

「事実はもう目の前に出てるんだぞ! まだ言い逃れする気か!」

美月は冷えきった声で返した。

「頭が悪いなら黙ってなさいよ。何が事実? あの子が『私です』って言えば、それで全部ほんとになるわけ?」

「脳みその足りない馬鹿は、軽々しく口を開かないで」

美月にとって、美咲は人を刺す側の人間だ。

そして一ノ瀬家の連中は、その手に刃物を握らせる側。

誰一人として無実ではない。

「違う!」

美咲はすぐさま顔を上げ、泣きながら言い返した。

「私、嘘なんてついてない! お姉ちゃんが私を突き飛ばしたんだもん!」

「へえ」

美月の笑みが、すっと冷える。

「さっきまで『お姉ちゃんのせいじゃない』って言ってたのに、今度は私が突き飛ばしたって?」

「じゃあ一ノ瀬家に監視映像を出させなさいよ。リビングにカメラ、あるんでしょ?」

美咲は目を泳がせ、美月と視線を合わせようとしない。ただ涙だけをますますこぼした。

「違うの……そんなことじゃなくて……お姉ちゃんが、私を陥れようとしてるだけで……」

蓮がたしなめるように口を挟む。

「美月。たとえ美咲に悪いところがあったとしても、そんなふうに言いがかりをつけるのは違うだろ」

そして、そのまま責めるような目を向けた。

「おまえ、どうしてそんなふうになったんだ? 外の男にでも変な影響を受けたのか」

「知り合ってまだ何日も経ってない相手をそこまでかばって、そのせいで俺と別れて、家族とも揉めて――」

美月は本気でうんざりした顔になる。

「蓮、あんた頭おかしいんじゃないの?」

「別れたのは、あんたが何が正しいかも見えないまま、いつだって美咲の嘘だけ信じてきたから」

「それから、私は誰かさんみたいに『兄妹みたいなもの』なんて都合のいい看板を掲げて、裏で薄汚いことしたりしないの」

「おまえ……!」

蓮は顔を真っ青にし、美月を指さしたまま言葉を失う。

美月は一歩も引かない。

「何よ」

「今これ、生放送なんだけど? 私が放送できないことを言う気がないだけで、よくそんな顔して立ってられるわね」

場の空気はすっかり険悪になり、会場はざわめきに包まれていた。

そのとき――低く、よく通る声が割って入る。

「私は、橘さんの言うことに一理あると思います」

一瞬で、全員の視線がその声のほうへ向いた。

湊だった。

背筋の伸びた立ち姿。品のある気配。体に吸いつくように仕立てられたスーツが、その均整の取れた体格をいっそう引き立てている。

彼がゆっくりと中へ入ってくるだけで、さっきまで騒がしかった場がすっと静まった。

司会者が慌てて駆け寄る。

「九条社長、どうしてこちらに……?」

湊は淡々と答えた。

「私は今回の『星のしらべ』の特別出資者です。本日のスペシャルゲストでもあります」

そう言って視線を人垣の向こうへ流し、美月のところで止める。

その目だけが、ほんのわずかにやわらいだ。

湊は舞台へ上がり、別のマイクを手に取ると、美咲へ向き直った。

「一ノ瀬さん。あなたは、ご自分の手が重傷で、チェロを弾くのも難しいとおっしゃるんですね」

美咲は湊を見た瞬間、目の奥にかすかな動揺を走らせた。慌ててうつむき、小さく答える。

「は、はい……」

湊の声音は平坦なままだった。

「では、なぜ音楽番組に出たんです?」

「涙で勝ち上がるつもりですか」

美咲の顔がさっと青ざめる。唇を震わせながら、必死に弁解した。

「ち、違います……もうかなり治っていて、演奏はできます……」

「弾けないと言ったかと思えば、今度は弾ける」

湊の目は冷たい。

「ここは舞台です。泣き売りをする場所ではありません」

その一言が、場の空気を鋭く切り裂いた。

客席がざわつく。

湊はさらに続ける。

「それなら、包帯を外してください」

「どれほどの怪我なのか、皆さんにも見てもらいましょう」

その瞬間、美咲は反射的に右手を背中へ隠した。

「外してください。一ノ瀬さん」

客席からも声が飛ぶ。

「外して!」

「見せてよ!」

「本当にそんなにひどいの?」

美咲はその場に立ち尽くし、目にいっぱい涙を溜めた。

もう分かっている。

今日、この包帯は外させられる。

長い逡巡の末、彼女は震える指で包帯をほどいた。

現れた右の掌には、一本の浅い傷跡しかない。

次の瞬間、会場がどっとどよめいた。

「え、これだけ?」

「大怪我みたいな話じゃなかったの?」

「さっきまで本気でかわいそうだと思ってたんだけど」

「それだけ治ってるなら、演奏にはもう支障ないよね?」

湊は審査員席へ視線を向け、宗一郎に小さくうなずきかけた。

「宗一郎先生。『星のしらべ』のルールでは、同じ組の出場者が同一曲で一対一の比較をすることも可能でしたね?」

宗一郎は静かにうなずく。

「ええ。それも今大会のルールの一つです」

「それなら話は早い」

湊は美月と美咲を順に見た。

「お二人ともチェロでエントリーしている。そして首席の座をめぐって、これだけ揉めている」

「なら、ルールどおり同じ曲を弾けばいい」

「実力を並べてみれば、どちらが首席にふさわしいのか。どちらが嘘をついているのか。見れば分かるはずです」

美月はわずかに顎を引いた。

「私は構わないわ」

一方で、美咲の胸の内は嫉妬と焦りでぐしゃぐしゃだった。

もともと実力では美月に及ばない。

それをこんな大勢の前で、しかも同じ曲で真正面から比べられる――。

負ける。

そうなれば、試合だけでは済まない。

評判も、立場も、全部まとめて崩れ落ちる。

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