第2章
「――あんたっ! なにしてるの!」
岩崎真乃は顔面蒼白で叫んだ。
「これ、どれだけ高いと思ってるの! オークションなら1000万だって付くのよ!」
「ただの品」
清宮紬の冷えた視線は、神が凡人を見下ろすそれだった。
「このブレスレットも、あなたの千隼兄さんも。私は別にいらない」
嘘じゃない。
確かにダイヤは散りばめられている。けれど、ほとんどが1カラット前後。小さすぎる。数はあっても、純度が足りない。
岩崎真乃には、紬が目利きもできないくせに宝を粗末にする、救いようのない女にしか見えなかった。
小川さんが駆け寄って慌てて拾い上げ、岩崎真乃に取り入れるように言った。
「お嬢様、もう岩崎家の人間でもないくせに! 岩崎家のものを持つ資格なんてありません!」
騒ぎに客の視線が集まり、ひそひそ声が飛ぶ。
「若いのに口だけは立派だな。あれ、スラム街に持っていけば一生食いっぱぐれないのに」
「貧乏人のプライドなんて、そんなもんさ」
岩崎真乃は顎を少し上げ、背筋を伸ばしてますます高慢に胸を張った。
「お姉ちゃん、手に入らないからって壊すことないじゃない。私、来月の初めに――千隼兄さんと婚約するの。その日、あなたを呼んでお祝いの一杯くらいご馳走しようと思ってたのに」
千隼兄さん――北条千隼。
幼いころから岩崎家と縁のある家の跡取りで、もともとの婚約相手は清宮紬だった。だが紬がスラム街の「偽物のお嬢さま」だとわかり、婚約は当然のように真乃へと差し替えられた。
Y市では名の通った青年実業家。真乃にとっては誇りそのものだ。
「耳、大丈夫?」
清宮紬は騒がしいのが嫌いだ。立て続けの挑発に、さすがにうんざりして眉を寄せる。
艶のある顔立ちに、すっと冷えた色が差した。
「私に来てほしい理由って何? あなたが『素朴で飾らない』ように見えるための引き立て役?」
傷口に塩を塗るつもりが、逆に刺し返された。紬の口は、開けば人を脳溢血にさせる。
本当はその完璧な顔を引き裂きたい。だが衆目の中、真乃は悔しさを飲み込み、涙目の哀れな顔を作った。
「お姉ちゃん……善意なのに、なんでそんなに怖いの……」
白石琴音が追いかけてきて、真乃の濡れた目を見るなり激昂した。
「清宮紬! 真乃はあなたの先を思って見送りに来たのに、なんて恩知らず!」
真乃が岩崎家に戻ってこの一か月、弱さの演技は手を替え品を替え。
岩崎成夫も白石琴音も、それが大好物だった。仮に真の顔を知っていても、実の娘を贔屓するに決まっている。
清宮紬は白石琴音を恐れない。淡い唇をわずかに吊り上げた。
「白石さん、どっちの目で私があなたの娘をいじめたの? ……さすが親子ね」
淡い皮肉。動じないその姿は、凛とした刃のようだった。
岩崎真乃は言葉を失う。母親すら恐れない相手に、自分が敵うわけがない――それでも悔しい。
「ママ……お姉ちゃん、ひどい」
白石琴音は冷たく鼻で笑った。
「この子は昔から一人で、馴染めない。理由がわからなかったけど、あなたを取り戻して全部つながった。根っこから性根が悪いのよ!」
清宮紬は二十歳。この二十年、岩崎家の両親とはどこか他人行儀なまま、部屋にこもって誰とも会わないことが多かった。
小川さんが空気を読んで、両手でブレスレットを差し出す。
「奥さま。お嬢さまが『いらない』って」
白石琴音はそれを取り、清宮紬をえぐるように睨んでから、真乃の手首にはめた。
「うちの珍品は、本物の子にしか似合わないわ」
その嘲りは、紬の肌すら掠めない。
「割れ鍋に綴じ蓋。お似合い」
そのときだった。
加長型の車が――風を裂くように突っ込んできて、門の前で慌てて急ブレーキをかけた。
真っ白な車体。ボンネットには天使のエンブレム。
清宮紬は一目でわかった。初期の特注車だ。金でどうこうできる代物じゃない。現存数も、片手で数えられる程度だろう。
争いの視線が一斉に車へ集まる。だが次の瞬間、あちこちから失望混じりのざわめきが漏れた。
ボディは擦り傷だらけで、古びてみすぼらしい。まるでスクラップ同然だったからだ。
助手席から降りた男は黒縁眼鏡に、脂ぎった。皺だらけのスーツを引っ張って整え、へらっと笑いながら清宮紬の前で深々と頭を下げた。
「お嬢様。旧宅に寄っておりまして遅れました。申し訳ございません」
「お嬢様?」
清宮紬は眉をわずかに上げた。
貧しい家が、こんな骨董級の車も呼び方も持つはずがない。
「はい。清宮家には若様が三人いらっしゃいまして、お嬢様は末っ子。四番目のお子さまでございます」
油っぽい執事が答える。
清宮紬が黙って考え込む間に、男は手早く彼女の足元の旅行鞄を持ち上げた。
「お嬢様、お荷物はこれだけで? お任せください!」
「それだけ」
紬は目を伏せる。岩崎家の針一本、糸一本すら持ち帰りたくなかった。
男は笑みを崩さず、鞄を車へ運びながら名乗った。
「木村とお呼びください。清宮家の用足しでございます。不行き届きがあればご容赦を」
ドアを開けると「ギギ……」と耳障りな音がした。今にも息絶えそうな老人の呻きみたいに。
白石琴音は露骨に顔をしかめ、岩崎真乃は小さく舌打ちする。
――なにこの車。拾ってきたんじゃないの?
清宮家は貧乏。仕事の経歴もない。家はスラム街。
それなのに、お嬢様だの大旦那様だの――見栄だけはいっちょ前。
木村は居心地悪そうに鞄を置き、座席の上の紙袋を持ち上げた。
「お嬢様。大旦那様より――岩崎家さまには養育のご恩があるので、ほんの気持ちを。どうかお納めください」
牛皮紙の袋。印もない。文庫本ほどの大きさ。
岩崎真乃は内心で白目を剥いた。――これで恥をかけって? 物乞いの小銭みたいじゃない。
「清宮家も礼儀だけは知ってるのね」
真乃は含み笑いを浮かべ、紬と木村が自取其辱するのを待った。
「結構よ。うちは困ってない。あなたたちが取っておきなさい」
白石琴音は見下ろしたまま言い放つ。
そこへ岩崎成夫も出てきて、太っ腹を演じるように手を振った。
「遠くからご苦労だったな。うちにあるもので欲しいものがあれば持っていけ。遠慮するな」
花に埋もれた豪奢な邸宅。酒棚には百年ものの銘酒、デザート台には高級果物。庭の景観樹でさえ数十万はする。
木村は一瞥しただけで、丁寧に言葉を重ねた。
「岩崎さん。本当に、大旦那様の贈り物は不要で?」
「はは!」
岩崎成夫は白石琴音と目配せし、得意げに言った。
「この岩崎成夫はY市の富豪番付一位だ。そんな端金はいらん」
その傲慢に、木村は続きの言葉を飲み込んだ。
Y市一位でも総資産はせいぜい30億。清宮家が用意したのは50億の基金、私有島、海上ヨット――。
「時間よ。行く」
清宮紬は岩崎家の卑しさ自体はどうでもいいが、木村がこれ以上辱められるのは見たくなかった。
「紬、帰っても連絡は忘れるな。ここはいつでもお前の家だ」
岩崎成夫は口先だけで言う。客たちは「情に厚い」と褒めそやすだろう。
清宮紬にはお見通しだ。真乃が戻ってから、岩崎家に自分の居場所などない。
紬が車へ乗り込む。外はみすぼらしくても、中は別世界だった。
シートは上質な革、天井には星空の意匠。――ただ古いのは確かで、ドアを閉めるとまた「ギギ……」と鳴る。
木村は岩崎家に一礼し、運転席へ。車は砂埃を巻き上げて走り去った。
その一瞬、岩崎真乃が目を凝らす。見慣れない連番のナンバー。
「パパ、ママ……? あれ、なんであんなナンバーなの?」
岩崎成夫が、ぴたりと固まった。
