第3章

「真乃、あんた……目の錯覚でしょ」

白石琴音が鼻で笑った。

岩崎真乃は疑いを引っ込める。むしろ少しだけ、期待してしまった。

清宮紬がスラム街に戻って、どれほど惨めな目に遭うのか。

もし身を売らされて、いちばん底の玩具に落ちるなら――最高だ。

……

清宮紬は車内で背筋を伸ばして座っていた。

伏せたまぶたにはうっすらと折り目。長く繊細なまつ毛が、墨を溶かしたような瞳を半分だけ隠している。

木村は信号で停車するたび、そっと首をひねって後部座席を窺った。

遺伝子というものは恐ろしい。

清宮の眉と目元は、奥様の若い頃にそっくりだった。彫りの深い顔立ち、寸分違わぬ整い方。

けれど雰囲気は別物だ。

奥様は柔らかく朗らかで、お嬢様は冷えた静けさをまとっている。

紬は窓の外へ目を向けた。見慣れた景色。二十年という時間を貫いてきた道。

岩崎家に、未練はない。

ただひとつ――ICUにいる叔母さんのことだけが、胸に引っかかっていた。

重い病の叔母さんを思い出し、紬の瞳の奥に痛みがよぎる。

「あとでN町に寄ってもらってもいい? 会わなきゃいけない人がいるの」

「お嬢様、N町へは参りません。空港までお送りし、専用機でK市へお連れします」

「K市? N町じゃないの?」

紬は念を押した。

K市はY市よりも栄えている。

だが岩崎家は『清宮家はN町の貧しい家』だと言っていた。遅れた土地で、暮らし向きも厳しいと。

この車がただものではないのはわかる。それでも紬は、見栄のために借りたのだろう、と考えていた。

N町で、こんな高級車を維持できるはずがない。両親は無職で、兄が三人――そう聞かされていたのだから。

「はい。大旦那様と奥様の本籍がN町でして、この車はあちらに長く置かれておりました。お荷物が多いかと存じ、私が回り道をしてN町から運転して参った次第です」

木村の顔つきは温厚で、嘘には見えない。

紬は口元をわずかに持ち上げた。

――面白い。

清宮家は、言われていたほど落ちぶれていない。むしろ、こんな特注の高級車を平気で放置できる家が、岩崎家以下なわけがない。

紬が目的地を告げると、木村は市立病院の正面で車を停めた。

紬が入院棟へ向かうのを見送り、木村はタイヤを軽く蹴って、はぁ……と息を吐く。

よく見ればホイールは錆だらけだ。

紬はなぜか、くすっと笑った。

木村さん――ちょっと可愛い。

病院は人の波でざわついていた。紬は迷わず重症者フロアへ向かう。

すると医師が二人、防護服のまま足早に叔母さんの病室へ向かっていた。

「家族には連絡ついた? 肝臓の提供はまだなんだろ。透析を続けるか、治療を切るか……」

「わからない。付き添いは雇って費用は払ってるのに、誰も見舞いに来ない」

「兄妹でそれか。本人が意識あったら……寒いだろうな」

二人はそのまま病室へ入っていく。

紬は足を止め、それ以上、前へ進めなかった。

――これが岩崎家だ。人情の欠片もない。

岩崎成夫は世間話と商談ばかり。

白石琴音は貴婦人の輪で張り合って、アフタヌーンティー。

そして岩崎真乃。戻って二か月、病院の敷居すら跨いでいない。

叔母さんは岩崎成夫の実妹だった。

岩崎グループを支え、独り身で、子もいない。頼れる家族は兄一家だけ。

なのに命が瀬戸際に立っても、岩崎家は最低限の労りすら寄こさない。

紬は覚えている。

言葉を教えてくれたこと。食事を世話してくれたこと。物語を読んでくれたこと。

熱を出した夜、つきっきりで看てくれたこと――全部、叔母さんだった。

瞳に哀しみが滲んだ、そのとき。

「紬、来たの?」

澄んだ声。

振り向くと、背の高い青年が立っていた。陽だまりみたいな雰囲気で、白衣越しでも活力が隠しきれない。

唐沢星也。

紬は握りしめていた薬瓶を差し出す。表面には汗がにじんでいた。

岩崎家を出てからずっと、手放さずにいたものだ。

「これ……叔母さんに使って。お願い」

「どこで手に入れた?」

唐沢星也の目がきらりと光り、二歩で詰めて受け取った。

「これ、抗がん作用が強いのに臨床前だろ。金じゃ買えないやつだぞ!」

「そこはいい」

紬は病室の扉を見つめた。

「これがあれば、肝臓が見つかる日まで持たせられるはず」

彼女にできるのは、それだけだった。

「紬……お前、すごすぎる!」

唐沢星也は勢いで抱きつこうとして、紬は気配を察し、すっと二歩退いた。

唐沢星也は気まずそうに頭を掻く。

「岩崎家は知らん顔なのに、血も繋がってないお前がそこまで……あいつら、恥ずかしくないのかよ」

「私は私の気持ちを尽くすだけ。あの人たちのことまで構っていられない」

紬は真っ直ぐに星也を見た。

「私がY市を離れてる間、叔母さんをお願い」

「任せろ!」

星也は即答した。こんなふうに軽々しく頼まれるのは、紬くらいだ。

唐沢星也は名門の医学大を出て、腕にも自信があった。

だが紬と出会ってから、価値観が揺らいだ。彼女は美しいだけじゃない。知識も研究も、彼の上を行く。

血中酸素の変化だけで心不全を見抜く。

産後の女性がひとつげっぷしただけで、即座に救命の指示を出す――そんな判断、並の医師にはできない。

「ありがとう」

紬が去ろうとした瞬間、星也が黒い上着の袖を掴んだ。

「礼だけじゃ足りない。厄介な案件があるんだ。手伝ってくれ」

断る間もなく、診察室へ引っ張られる。

「榊原のおじい様が入院中でさ。術前の造影で脳動脈瘤。いつ破裂してもおかしくない。でも執刀できる医師が来るのは二日後」

「しかも家族はK市へ出張中で、同意書が取れない。上も動きたがらない」

星也は机に画像を広げた。

別の机では医長が二人、顔を真っ赤にして言い争っている。

「身分が身分よ! もし手術中に亡くなったら、責任は誰が取るの!」

中年の女医が唾を飛ばし、カルテを机に叩きつける。

もう一人の医長は、薄くなった髪を乱暴に掻き上げた。

「八方塞がりだ……。もし持たなかったら、榊原様にどう詫びる!」

「だから海外の専門家を待つの! 薬で繋いで、24時間モニタリング。勝算が八割まで上がってから切る!」

怒号が飛び交う中、紬は画像を見つめた。

その瞳が、すっと冷たく沈む。

そして静かな声で割って入る。

「二日じゃない。もって二時間」

「今すぐ手術しないなら、家族は遺体を迎えに来るだけ」

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