第5章

話がここまで来ると、この賭けの性質は完全に変わっていた。

互いに差し出したのは、自分にとっていちばん大切なものだ。科主任としての矜持。そして、業界の天才と呼ばれる二人の未来。

清宮紬は手首の時計にちらりと視線を落とすと、身を翻して、さっき奪われたレントゲンフィルムを取り返すように手に取った。

「時間がない。患者の病室へ案内して。すぐに看護師と助手も呼んで」

ようやく落ち着きかけていた鈴木主任の声が、また裏返る。

「……あ、あなた。私に命令してるの?」

だが向かいの二人は、抗議など耳に入らないと言わんばかりに、手早く身支度を整えると扉を開けて出ていった。

さっき鈴木主任が清宮紬の反応を無視したのと、まったく同じように。

バタン! と、事務室の扉が乱暴に閉まる。それが、怒鳴り声への返事だった。

鈴木主任は一気に気が抜け、椅子にどさりと座り込む。

「何様のつもりよ……反逆にもほどがある!」

「乳臭いガキが、八十過ぎの爺さんの頭にメス入れて遊ぶですって? ただの殺人よ!」

「今すぐ榊原様に連絡して――思い知らせてやるんだから!」

一方、榊原おじい様の病室は、すでに戦場だった。

指揮を取りやすいよう、清宮紬は椅子の上に立つ。両手を宙で絶えず動かし、喉が潰れかけた声で指示を飛ばした。

「人工呼吸器とモニターの確認。術中は血中酸素を常時監視して」

「放射線治療由来の軽い炎症が疑わしい。デキサメタゾン、すぐ準備」

そのとき、扉が勢いよく開き、形も大きさもまちまちの機械が次々と押し込まれてきた。

隊列のいちばん後ろから、唐沢星也が興奮した顔で叫ぶ。

「清宮紬! 使えそうなの、かき集めてきた!」

清宮紬はつま先で椅子を蹴るようにして床へ飛び降り、部屋を埋め尽くす鉄の塊を見回した。

「……最新型の補助機器ばかりね。どこから持ってきたの?」

唐沢星也は堪えきれない得意顔で、胸を叩く。

「顔でねじ込んで借りた。どう? 俺、病院じゃそれなりに顔が利くんだぜ?」

清宮紬の表情がすっと冷える。背を向けたまま言い切った。

「全部、外へ出して」

唐沢星也は耳を疑い、思わず身を乗り出す。

「……は?」

清宮紬は手を背に組み、振り返らない。

「先週、隣の町で同じロットを使った手術があった。主要パーツの材質が衛生基準を満たしてなくて、創部が重度感染したの」

「そんなリスク、取れない」

唐沢星也はがっくりしながら、呆然と立っている研修医たちへ手を振った。

「悪い、もうひと仕事だ。これ、いったん戻して」

「旧型のセット、こっちへ運んでくれ」

だが、椅子の上に戻った清宮紬が、すぐさま否を突きつける。

「ダメ。間に合わない。今から手術に入る」

唐沢星也は視界がぐらりと揺れ、膝が抜けかけた。

我に返ると、ほとんど転がるように椅子まで駆け寄り、清宮紬の腰に腕を回して揺さぶる。

「清宮紬、お前……あのババアに腹立てて頭おかしくなったのか!」

「補助機器なしで、脳腫瘍の手術なんてできるわけないだろ!」

清宮紬は苛立たしげに身をよじり、唐沢星也の腕から足を抜く。眉間に浅い皺。

「さっき事務室で十分以上、無駄にした。それに術野の準備でまた十分以上」

「患者に残された時間は、せいぜい一時間半」

「今から器材を持ってきても、調整と滅菌でどれだけ食うと思う?」

睨み合いが続く。その隙を縫うように、廊下から得意げな嘲笑が転がり込んできた。

「医者を十年以上やってるけど、器械なしで手術するなんて初めて聞いたわ」

「ところであなたの家、料理もまだ火打ち石で起こしてるの?」

一同が振り向くと、いつの間にか鈴木主任が入口に立っていた。背後には、さっき先に逃げた男の主任もいる。

面白がる顔。二人はまた同じ側に立ったらしい。

男の主任は、何かの薬でも打たれたみたいに口が回る。

「それはもう天才の領域じゃない」

「補助なしで一太刀入れたら、榊原旦那様の脳幹ごと持っていく可能性があるぞ」

くくっと笑う声が重なり、部屋に反響した。

清宮紬は言い返さない。椅子から降りると、手術台の器具を素早く見渡し、低い声で告げた。

「手術開始。関係ない人は今すぐ出て」

唐沢星也は命令を受けた機械みたいに、二人の主任の前へ立つ。

「お二人とも、助手と看護師はもう配置済みです。ここに席はありません」

「出てください。これ以上は悪質な手術妨害として通報します」

バン! と扉が閉まり、室内には清宮紬の淡々とした指示が流れ始める。

「骨ドリル、ミリングカッター、バイポーラ電気凝固。確認」

「確認しました」

「ゼラチンスポンジ、準備」

「はい」

廊下で、鈴木主任の口元がひくつく。ヒールが床を叩き、カツカツと苛立ちが音になる。

「原田主任、ね? 言ったとおりよ。あれが上への態度ってもの?」

原田主任は困ったように首を振る。

「態度は、まあ若さだと思えばいい」

「心配なのは、あの素性の知れない娘と榊原旦那様の状態だ。唐沢星也は責任を取ると言うが……」

「もし旦那様があの部屋で亡くなったら、上が私たちを見逃すわけがない」

そのとき、部屋の中から「ウィィィン……」と骨ドリルの唸りが漏れてきた。

鈴木主任の脳裏に、さっきの唐沢星也の言葉がよぎる。ぱっと表情が明るくなった。

「……そうだ! 今から警察に通報しましょ。どう?」

そう言いながら、鈴木主任はポケットを次々探る。やがて眉をひそめた。

「あれ? 電話がない。確かに持ってたのに……」

原田主任は何か思い出したように、階段のほうへ歩き出す。

「いい。私のスマホが下にある。私が行く」

「君はここで様子を見ていてくれ。すぐ戻る」

慌ただしく去っていく背中を見送り、鈴木主任は探す手を止めた。唇に、意味深な笑みが浮かぶ。

病室の中は、極限まで張り詰めていた。

全員の視線が、清宮紬の手にある組織鑷子へ吸い寄せられる。

だが予想に反して、手術台に立つ清宮紬は、まるで医療界の巨匠に憑かれたかのようだった。

一太刀、一剪み。そのすべてが、恐ろしいほど正確に「そこ」へ落ちる。

唐沢星也は、息をするのも忘れて見入る。

本来なら、自分の人脈を見せつけるつもりだった。こっそり院内最高クラスの補助チームまで揃えて、想い人の前で格好をつける――そのはずだったのに。

今、切り札は自分じゃない。清宮紬そのものだった。

ふいに、誰かが息を呑む音がした。

清宮紬の鑷子が、出血点を寸分違わず捉えたのだ。

それはつまり、腫瘍の剥離が最重要局面に入ったということ。

「……汗、拭いて」

清宮紬の声が、わずかに震えていた。

「汗、拭いて」

看護師は見惚れたまま固まっていて、二度呼ばれても反応しない。

唐沢星也が慌ててガーゼをひったくり、手術台へ駆け寄った。

――その手が、清宮紬のこめかみに届く寸前。

ぱつん、と世界が落ちた。

一面の闇。

直後、人工呼吸器とモニターの警報音がけたたましく鳴り響き、パネルの非常灯が次々と点いて、青や赤の光が怯えた顔を浮かび上がらせる。

「誰も動くな!」

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