第1章

 結城拓海は、今夜のローズセレモニー――男性が薔薇を渡して次に進む女性を選ぶ儀式――は完璧に秘密にされていると信じ切っていた。

 同じ部活の仲間には、私に一言も漏らすなと何度も念を押していたらしい。けれどこの界隈では、安いビールより噂のほうが早く回る。私は何時間も前に嗅ぎつけていた。

 今夜ここにいる連中の半分以上は、息を潜めて、見世物を待っていたのだ。

 だって、私がいつも恥も外聞もなく拓海にへつらっていることは周知の事実だった。あの恩人が学費を払ってくれなければ、どこから来たのかも分からない奨学生の私なんて、生き残れない――誰もがそう決めつけていた。

 私が部屋を飛び出して嗚咽しながら泣き崩れるのか、それとも屋上へ直行して身を投げるのか。そんなことにまで賭けが成立していたくらいだ。

 彼らにとって、私が完全に壊れる瞬間こそが、パーティーの本当のフィナーレだった。

 残念だったわね。あなたたちが待ち望んだクライマックスは、最後までやって来なかった。

 拓海が大学のマドンナ、三浦莉子にバラを手渡し、紙吹雪が舞い、音楽が高鳴っても――大広間の扉は固く閉ざされたまま。

 私が乱入して騒ぎを起こさないと分かった途端、会場の空気は穴の空いた風船みたいにしゅうっと萎んだ。

 娯楽を奪われた観衆は、がっかりしたようにひそひそとささやき合う。

 その失望のざわめきが、拓海の「勝者の笑み」を一瞬で消し飛ばした。莉子の腰に腕を回したまま、空いている手で苛立たしげにスマホを取り出し、画面を睨む。

 ――何もない。不在着信も、長文の非難メッセージも。

 拓海は奥歯を噛み締めた。

 見世物が成立しないこと。私が崩れ落ちる姿を見られないこと。それはどんな侮辱よりも、彼の神経を逆撫でした。

 傷ついた自尊心を隠すように、拓海はくるりと振り向き、音響ブースに向かって怒鳴り散らした。

「今夜のシャンパンは全部俺持ちだ! 俺のツケにしろ!」

 会場が割れんばかりの歓声に包まれる。

 そのとき私は、二階の螺旋階段の影から、ゆっくりと降りていった。ピンヒールが大理石を打つ音が、こつ、こつ、と澄んで響く。

 下にいた誰かがすぐに口笛を吹き、面白がった声を上げた。

「見ろよ! ショーはまだ終わってねえぞ!」

「金目当ての女が我慢できるわけないだろ! 泣き芸見せてくれんじゃね?」

 騒ぎに気づいて拓海が振り向く。私だと分かった瞬間、顔から苛立ちは消え、最初からこうなると知っていたと言わんばかりの、あの得意げな表情にすげ替わった。

 私は周囲の飢えた視線を無視し、人混みをまっすぐ突っ切って、拓海の前で足を止めた。

「明日香」

 拓海は顎をわずかに持ち上げ、わざとらしく莉子を引き寄せる。度量の広い施し手を演じる仕草だ。

「全部見ちゃったなら、俺を責めるなよ。こういうもんだろ――所詮バラエティだ。本気にするな」

 一拍置いて、慈善家気取りの声のまま続ける。

「それに、被害者ぶるな。大人しく出ていけ。そうしたら来週の支払いくらいは、まだ面倒見てやる。身の程をわきまえてれば、困ったときにまた俺のところへ来ればいい」

 そして声を落とし、刃のように尖らせた。

「優しく言ってるうちに察しろ。俺が恵んでやるものを掴んで消えろ。ここで恥を晒すな」

「拓海」

 私は退かない。むしろ半歩、近づいて遮った。

 拓海の眉が反射的に寄り、顎が強張る。

「明日香、やめろ――」

 私は唇の端だけで冷たく笑い、ポケットに手を突っ込んだ。そして、景品みたいに渡された黒いカードを取り出し、二人の間に掲げる。

「勘違いしないで。清算しに来ただけ」

 カードを見た拓海の表情が揺れる。

「……何のつもりだ?」

「カード、返す。あなたの哀れな施しを受ける立場は、もう終わり」

 声は平坦で、感情の起伏は一切なかった。

 拓海の呼吸が荒くなる。大勢の前で自分の支配を揺さぶられたことが堪えたのだろう、顔色はみるみる暗く沈み、歯を食いしばったまま嘲るように吐き捨てた。

「今さら意地張ってんのか? そのカードの限度額なんて俺にとっちゃ小銭だ。要らねえならいい――捨てろよ」

 言い終えるより早く、私は手を上げ、ためらいもなく、その高価な黒いカードと、私たちが共同で使っていた部屋の鍵を、すぐ近くのゴミ箱へ放り投げた。

 金属がカラン、と鳴る。

 音楽を裂くような乾いた音。ゴミ箱の底に当たった金属は、他の廃棄物の中に沈んでいった。

「私に使った汚い金なら、ゴミとして捨てるのがお似合いね」

 そう言い残して、私は振り返りもせず出口へ向かって歩き出した。

 もう背を向けているのに、背後の拓海が真っ赤になっているのが分かる気がした。あれは、面子を平手打ちされたのと同じだ。

 隣にいた友人が、すぐに取り繕うように声を張る。

「もういいって、拓海! あいつ、見栄張ってるだけだろ。二日もすりゃ現実にぶつかって、這って戻ってくるって!」

「だよな! 明日の朝にはゴミ箱を漁ってるとこ見られるかもな!」別の声が笑った。

 拓海は鼻で短く笑い、強張っていた表情を、見下したような嘲笑へとゆっくり整えていく。

「好きに騒がせとけ。一人の悲劇のヒロイン気取りに、今夜を台無しにされてたまるか」

 そして莉子の綺麗な顔へ視線を戻し、さっきの出来事など最初から存在しなかったかのように切り捨てた。

 拓海の中では、明日になって取り立て屋が私の部屋へ押しかければ、結局私はまた膝をついて「戻して」と懇願することになっている。何年もそんな芝居を繰り返してきたせいで、彼は私の大騒ぎに慣れきっていた。

 私は勢いよく扉を押し開けた。外では凍えるような冷たい雨が降り出している。傘なんて差さない。骨まで削る風と雨を、そのまま受けた。

 氷水のような雨が容赦なく意識を研ぎ澄まし、頭の中には息が詰まるほどの「前」の記憶が押し寄せてくる。

 前の人生でも、今夜と同じ夜――拓海が別の誰かにバラを渡したとき、私は大騒ぎをした。

 割れたガラス片を掴み、手首に押し当てて、自殺をちらつかせて脅し、思い通りにしようとしたことさえある。結果、私は学内の笑い者になり、拓海は私が恥ずかしくてたまらないと言わんばかりに、病院に五分もいないうちに背を向けて出ていった。それきり、二度と戻らなかった。

 そして、彼にあまりにきっぱり切り捨てられたことで、寄生虫みたいな両親は「金づるを失った」と悟り、迷いなく私を退学に追い込み、借金の穴埋めのために私を闇金へ売り渡した。

 そこから私の人生は、崖から転げ落ちるように堕ちていった。最後は、悪臭のこもる地下室で、誰にも知られず、ひとり死んだ。誰の記憶にも残らないまま。

 私が死んだあとでさえ、母は顔を出そうとしなかった。最後にその部屋へ足を踏み入れ、無表情のまま私の遺体を引き取りに来たのは、私がずっと距離を置いてきた相手――冷たく近寄りがたい教授、結城涼真だった。拓海の異母兄だ。

 なんて皮肉だろう。遠い兄のような立場で涼真が私の亡骸を片づけている頃、私を奈落へ突き落とした拓海は、その同じ瞬間、新しい恋にうつつを抜かし、最新の獲物とヨットで酒盛りをしていた。最初から最後まで、彼は一度も姿を見せなかった。

 死ぬ直前の、あの息苦しさが、今も喉元を締めつけるように蘇る。もし二度目の機会がなかったら、もしこの悪夢を一度経験していなかったら――今夜も私はまっすぐ、同じ罠に戻っていたはずだ。

 私は目を閉じた。胸の奥でどくどくと鳴る鼓動が、生々しいほどはっきり伝わってくる。

 ――ようやく、この輪を断ち切れた。そう思うと、心の底から救われた気がした。

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