第2章

 私は鞄から携帯を引っぱり出し、画面に表示された番号を見つめた。

 前の人生では――結局、最後の最後まで、かける勇気が持てなかった電話だ。

 死の記憶が、勝手に押し寄せてくる。黒い喪服を着た涼真が、私の葬儀で立ち尽くしていた。やがて、私の遺灰が入った小さな骨壺は、彼の孤独な年月における唯一の相棒になった。

 二度目の人生になっても、私のせいで彼の心が砕けていくのを見ていた痛みは、鋭く、はっきりと残っている。

 私は発信を押した。雨の中で、コール音が三回鳴る。

「結城だ」

 低くて、冷たい声。

「結城教授、明日香です」

 向こうが、死んだように黙り込んだ。

「拓海のところを出てきました」雨が頬を伝って落ちる。「クレジットカードも部屋の鍵も捨てってきた。お金もないし、行く場所もない。迎えに来てください」

 五秒きっかりの沈黙のあと、絞り出すような声が届いた。

「どこだ」

「男子寮の外です」

「そこで待ってろ」ぷつりと切れる。迷いのない、潔い切り方だった。

 私は携帯を鞄に押し込んだ。賭けだ――心の奥では、今でも私のために残りの人生を燃やす男でいてくれる、そう信じて。

 庇の下には逃げなかった。土砂降りの中に立ったまま、雨に身体の芯まで冷やされる。

 震えていた。半分は寒さで、もう半分は、押し潰されそうな自己疑念で。

 もし、転生のバタフライ効果で彼の執着が消えていて、もし本当に私なんてどうでもいいのなら……この試しは、みじめな屈辱でしかない。

 二十分きっかり。黒いベントレーが雨の帳を切り裂いて現れ、甲高い音を立てて縁石に止まった。

 ドアが開く。黒い傘を差した涼真が降りてくる。チャコールのスーツに、ネクタイは寸分の狂いもない。

 震える私の身体を視線がなぞった瞬間、彼の目が氷になった。

「正気か?」大股で近づいてくる。握りしめた傘の骨が、きしむ音を立てた。傘は完全に私の上へ差し出され、そのせいで彼の肩と袖はもう濡れ始めている。紫がかった私の唇を睨みつけ、怒りをかろうじて抑えた声で吐き捨てた。「男を捨てるために命まで賭ける気か」

 私は顔の水を拭い、小さく笑って見上げた。「来てくれてありがとう、涼真」

 懇願じゃない。事実を述べただけ。

 彼の顎が強く食いしばられ、筋肉がぴくりと動く。次の瞬間、彼は私の腕を掴んだ。掌の灼けるような熱が、肌の冷たい雨水を突き抜けてくる。罰するみたいに強い握力だった。

 彼はほとんど押し込むように私を後部座席へ入れた。私を庇ったせいでスーツの半分がびしょ濡れだ。言葉もなくカシミヤのブランケットを投げてよこし、氷のような声で言った。

「拭け。自分をこんな目に遭わせるな」

「大丈夫。限界はわかってます」私はブランケットをきつく巻きつけた。白い手首には、掴まれた赤い痕がもう浮き出ていた。

「どこへ行く。近くのホテルか?」無表情のままナビを呼び出す。

「ホテルじゃない。寮でもない」バックミラー越しに、その深い目を見据えた。「あなたのマンション、涼真」

 キィィ――!

 濡れた路面でタイヤが悲鳴を上げ、車体ががくんと縁石で止まった。

 涼真が振り返る。車内の影に半身を呑まれたまま、その目が私を貫いた。骨まで凍らせるほど冷たいのに、そこには侮辱されたような怒りが一筋、紛れている。

「拓海は今夜、パーティーに行ったんだ。俺のところにはいない」顎の線が張り、言葉は刃みたいに尖っていた。「あいつへの当てつけか、俺を踏み台にしてあいつに仕返しするつもりなら、人を間違えてる」

「いるわけないって、わかってます」私はブランケットの端を握りしめた。「それが理由じゃありません」

 車内の空気が、一瞬で消えたようだった。

 涼真は数秒、私を見つめた。目の中の自制が、今にもひび割れそうに揺れる。彼は不意に携帯を取り出した。

「車を呼ぶ。部屋も取る――」

「涼真!」

 私はセンターコンソールを乗り越えるように身を乗り出し、彼の手の上に自分の手を押さえつけた。触れた瞬間、彼の前腕の筋肉が石みたいに固くなった。

「明日香、離せ」彼は私を見た。灰がかった蒼い目が、嵐を必死で押し殺している。「今夜、何があって機嫌を損ねたのかは知らない。だが俺は教授――しかも拓海の兄だ。感情のはけ口の道具にするな」

 一拍置いて、かすかな痛みと厳しさが声に滲んだ。

「それに、お前が自分を餌にする必要もない」

 私は離さなかった。むしろ、指をいっそう強く握り込む。

「寮に戻ったら笑いものになる。ホテルに行けば、明日の朝には拓海に追い詰められる。家には帰れないし、部屋代だってない。私は遊んでるんじゃない。あなたを利用してもいない」

 私はゆっくりと彼の手を放し、後部座席へ引き下がった。

「でも、私がただ操ってるだけだと思うなら……お邪魔してすみませんでした」

 そう言って身体をひねり、ドアノブに手を伸ばす。

 カチリ。静寂を切り裂くように、集中ロックがかかった音。

 私は固まって、それから振り返った。

 涼真は私を見ていない。携帯を乱暴に脇へ放り、両手でハンドルを握りしめていた。手の甲に血管が浮いている。

 アクセルを一度踏み込むだけで、車は雨の中へ飛び出し、そのまま学内の奥――静かな教職員宿舎へ向けて突っ走った。

 彼の部屋は、彼そのものだった。学究的な厳格さと禁欲が空気に染みついている。壁一面を占める背の高い濃色の木製書架。物はすべて定位置に収まり、何ひとつ気の抜けた温もりがない。

「浴室は廊下を左だ」彼は湿ったネクタイを外し、椅子の背に無造作に掛けた。肩にはまだ水滴が玉になっている。清潔な黒いTシャツとスウェットパンツを私に手渡した。どこまでも事務的で、距離を保ったまま。

 私は浴室へ入り、熱い湯で冷えを洗い流した。洗面台には未開封の客用アメニティが並んでいたが、手を伸ばさない。代わりに、棚に置かれた彼のボディソープを取る。

 杉の木の香りに、きりっとした柑橘が混じる。涼真の匂い。

 身体を拭き終えると、私は黒いTシャツだけを身につけ、スウェットは洗濯かごへ放り込んだ。

 涼真は背が高い。私が着るとそれは短いワンピースみたいになり、裾は太ももの中ほどをかろうじて隠す程度。襟ぐりも広く、少し動くだけで片方の肩が落ちる。

 裸足で出ていく。湿った髪が肩に落ち、肌に貼りついた。

 リビングを照らしているのは、真鍮のフロアランプの淡い光だけ。涼真は本棚のそばのワゴンの前に立ち、酒を注いでいた。

 彼はスウェットパンツに黒いTシャツへ着替えている。教壇の禁欲的な殻を脱ぎ捨て、張り詰めた筋肉が危うい迫力を放っていた。

 足音に、彼が振り向く。

 注いでいた手が、止まる。視線が抑えきれずに、滴る髪から素足の脚へと滑り落ちた。

「ズボンは?」声が即座に掠れた。

「長すぎて、つまずくから」私は平然と見返し、その境界を越えて、濃い革の読書椅子に腰を下ろした。濡れた髪が落ち、上等な革にすぐ暗い染みが広がる。

 涼真の眉がぴくりと動いたが、止めはしない。

 厳格な学術空間の中で、私が近づいたことで、冷たい杉の香りが幾層にも重なる――彼の匂いが、今は私の肌からも立ち上っている。

 重なった香りが、この無彩色の領域に、息苦しいほど禁断の亀裂をこじ開けた。

 彼は私を強く見据えた。目の奥で、何かがうねり続けている。三秒きっかりののち、彼は乱暴に視線を外し、ウイスキーを一息に半分飲み干した。

「そこにいろ」机から煙草の箱を掴み、張り詰めた声で言う。「一服してくる」

 ベランダへ逃げるように向かう背中を見送り、私が視線を落とそうとした、そのとき。

 クルミ材のローテーブルの上に置いた私の携帯が、激しく震えた。

 冷たい画面の光が、薄暗い空気を鋭く切り裂く。私は動かない。涼真もベランダの扉の前で足を止めた。

 ほんの数歩の距離を挟んで、私たちは同じテーブルを見た。画面に点滅する名前が、この秘密めいた静けさを容赦なく粉砕する。

 拓海。

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