第1章 妊娠したの?
相馬蛍は、どうしても子どもが欲しかった。真田辰則との結婚を――この綱渡りみたいな関係を、なんとか繋ぎ止めるために。
床まで届く窓の向こうで、夜がしっとりと息をしている。
白いレースのネグリジェが小柄な身体の曲線をやわらかく包み、潤んだ杏色の瞳が伏せられた。白い指先が、湯気の立つ漢方薬の椀を持ち上げる。
そのとき、寝室の扉が押し開けられた。
背の高い男が入ってきて、空気に漂う甘苦い薬の匂いを嗅ぎ取る。
真田辰則が眉を寄せた。
夜に沈む細い背中を、冷えた視線がなぞる。声もまた、ひどく淡い。
「苦労して手に入れたものが、必ずしも思いどおりになるとは限らない」
相馬蛍が椀を置いた、その瞬間だった。
熱い腕に抱きすくめられ、息を奪われる。ふいに、雪松みたいな冷たい香りが覆いかぶさった。
びくり、と身体が震える。
次の瞬間、後頭部を片手で押さえられ、仰向けにされた顔が氷みたいな瞳とぶつかった。
真田辰則の薄い唇が、からかうように弧を描く。
「相変わらず、みっともないな」
温かな吐息が、少しずつ彼女の鼻先へ落ちてくる。
彼女が彼を愛していることは、隠しようもないほど周囲に知られていた。本人も、隠す気なんてなかった。
赤く滲んだ目尻のまま、男は真っ直ぐに相馬蛍を見つめる。傲慢で、乱暴で、好き勝手で――どこか愉しげに。
耳元には荒い息。
相馬蛍は視線を落とし、それでも自分から彼の首に腕を回した。甘えるような声が、喉からこぼれる。
「辰則兄さん……」
*
三週間後。
相馬蛍は検査結果の紙を握りしめ、医師の向かいに座っていた。
「とにかく無理はしないこと。定期的に検診に来てくださいね」
デスクの向こうの原田先生は眼鏡越しに彼女を見て、注意事項をさらさらと書き連ねる。
原田新は相馬蛍の母の親友で、昔から彼女を気にかけてくれていた。
相馬蛍は真面目に頷く。
「分かりました、原田おじさん。食べちゃいけないものも、全部教えてください」
神経質になるのも無理はない。
真田辰則の子を早く授かるために、民間療法だの怪しい偏方だの、ありとあらゆる手を試してきたのだから。
一週間前、妊娠が分かった。嬉しくて、気が狂いそうだった。
ようやく――二人の子どもができる。
真田辰則も、いつかは自分を愛してくれる。時間の問題だ。そう信じたかった。
「今日はありがとうございました。来週また来ます」
相馬蛍が立ち上がりかけたとき。
「蛍、ひとつ……」
原田先生が立ち上がり、言い淀んだ。迷いが顔に滲む。
相馬蛍は笑みを貼りつけたまま、その様子に胸がきゅっと縮んだ。
「原田おじさん……まさか、赤ちゃんに何か?」
指先が冷え、紙を握り締める。
「赤ちゃんのことじゃない」
原田新は眼鏡を外し、言葉を選ぶように続けた。
「昨日、君のご主人が病院に来ているのを見かけてね……」
相馬蛍は一瞬、呆けた。
「辰則が? 具合でも悪いんですか?」
原田新は憂いを湛えた目で彼女を見る。
「彼のそばに、女性がいた」
「君も知っているかもしれない。水原初歌だ」
「彼女も妊娠している。五か月だ」
水原初歌。
相馬蛍の顔から血の気が引いた。それでも口元には、薄い笑みが貼りついたままだ。
「原田おじさん、心配しないでください。二人は友だちです。私、帰りますね」
水原初歌――真田辰則が幼い頃から憧れていた相手。
結婚して間もなく、彼女がフランスへ行ったと聞いた。
外来棟を出た途端、胃がぐらりと反転した。
相馬蛍はよろめきながらゴミ箱へ駆け寄り、堪えきれず吐いた。
五か月前。真田辰則もフランスへ行き、二か月も戻らなかった。
頭上の太陽が、やけに冷たく感じる。
晩秋の風がざあっと吹き抜け、薄い上着を掻き寄せても震えが止まらない。
結局、情けなく目が熱くなった。
相馬蛍は平らな下腹にそっと手を当てる。
「大丈夫。パパは……私たちを裏切らない」
――その瞬間だった。
視界の先に、見覚えのある二つの影。
あの横顔は、相馬蛍が見たことのないほど柔らかかった。
病院の階段の下。
真田辰則が笑みを含んだ桃花眼で、隣の女を見下ろす。
「さっき医者が言っただろ。少しでも辛かったら、すぐ言え。俺に心配させるな。いいな」
水原初歌は彼の腕に縋り、甘えるように見上げた。
「大丈夫だって。そんなに緊張しないで」
真田辰則は眉を深く寄せ、声に心配を滲ませる。
「お腹にいるのは俺の子だ。心配しないわけがないだろ。言うこと聞け」
相馬蛍がどうやって病院を出て、どうやって家に帰ったのか。
覚えていない。頭の中が、ずっと白かった。
*
深夜、真田邸。
真田辰則が部屋に入ると、窓辺の灯りは一つだけだった。
ソファの女は、今日はいつもの『誘惑用』の寝間着を着ていない。
なぜか胸の奥がざわつく。喉が渇き、彼はネクタイを緩めた。
「半年前、フランスで……彼女に会ったの?」
相馬蛍の視線は冷たく鋭く、真田辰則には見知らぬものに思えた。
真田辰則は一瞬だけ目を瞬かせ、淡々と上着を脱ぎ、腕時計を外し、シャツのボタンを一つずつ外していく。
薄暗い部屋で、彼は笑っていた。昼間のそれとはまるで違う笑みで。
「相馬蛍」
声はいつもどおり冷たい。
「俺がどこへ行こうが、誰に会おうが、お前には関係ない。聞く権利もないし、今みたいに俺を責める権利もない。分かったか」
今日は機嫌がいいから、これだけ言ってやっている。
彼にとって相馬蛍は、最も嫌いな女だ。普段なら視界にも入れない。
夫婦として身体を重ねるときだけ、わずかに興が乗る。
相馬蛍の鼻の奥がつんとした。
ソファから立ち上がった細い身体が、黄色い灯りの下でふらつく。
「関係ない? 忘れたの? 私、相馬蛍があなたの妻よ! 正式に迎えた妻!」
真田辰則が小さく笑う。
「もう一度言わせたいのか?」
そして、氷の刃みたいな言葉を落とした。
「相馬蛍。お前が手を使わなきゃ、真田奥様はお前じゃなかった」
冷酷で、容赦がない。
なのに体温だけが、やけに熱い。
彼は数歩で距離を詰め、相馬蛍を抱き寄せる。大きな手が耳の後ろを撫で、声まで半分だけ柔らかくなった。慰めるように。
「真田奥様。俺の何が不満だ? どの夜も満足させてやっただろ。ん?」
その瞬間、知らない女物の香水が鼻を刺した。
胃がまた波立つ。
相馬蛍は彼を突き飛ばし、涙が勝手に滲むのを堪えきれない。
「真田辰則……一つだけ聞く。あなた、彼女と……本当に、関係があるの?」
真田辰則は女のヒステリックな姿を初めて見るように、ゆっくりソファの肘掛けに腰を下ろした。目には興味が浮かぶ。
「今日見たのか?」
声が急に冷える。
「見たなら隠さない。初歌が孕んでるのは真田家の子だ。賢いなら大人しくしてろ」
「そうじゃなきゃ――俺は絶対に許さない」
相馬蛍の中に残っていた最後の希望が、音もなく崩れた。
堪え切れず、ソファのバッグを掴んで投げつける。
「真田辰則! 出ていけ! 顔も見たくない!」
真田辰則は、彼女がここまで暴れるとは思っていなかった。
いつもは媚びることしかしない女だ。大声すら出せなかったはずなのに。
彼は軽々とバッグを受け止めた。
中身が床にばらばらと散る。
白い検査票が、ひらり――と舞い落ちた。
「……これは何だ」
真田辰則が素早く拾い上げる。
相馬蛍の顔色が変わり、奪い返そうと手を伸ばした。
「返して!」
「妊娠したのか?」
二つの声が、同時に重なった。
