第2章 崖から転落
相馬蛍は、力なく笑った。
「ええ、妊娠したわ。でも心配しないで。この子は……処理する。それに、私たちも終わりよ」
真田辰則の目が沈み、顔に陰が落ちる。彼は相馬蛍の細い手首を乱暴に掴んだ。
「俺はお前に――」
そのとき、扉がノックされた。
「真田様、照井輔佐からお電話です。水原嬢が倒れたそうで……」
使用人の声が、彼の言葉を遮った。
相馬蛍の目は真っ赤だった。それでも、辰則をまっすぐ見据える。
「何を言うつもりだったの?」
真田辰則は手を放し、大股で部屋を出ていく。喜怒の読めない声だけを残して。
「先に寝てろ。話は帰ってからだ」
*
相馬蛍は署名済みの離婚協議書を、真田家のリビングのテーブルに置いた。
まとめた荷物を手に、丸一年暮らした場所を振り返る。
――未練がないわけがない。
夜の、ほんの少しの温もりが、どうしても忘れられない。
普段は冷たいくせに、身体を重ねるときだけ『愛されている錯覚』をくれた。
けれど、ここに留まっても、すぐに居場所はなくなる。
最初から、彼女のものだったことなど一度もない。
運転手の木下が荷物に手を伸ばす。
「奥さま、私が」
相馬蛍は車の後部座席の前で、静かに言った。
「木下。『奥さま』って呼ぶのは、これが最後よ」
木下は視線を逸らし、何も言わずにドアを開けた。
車は山腹の邸宅を下っていく。
相馬蛍は窓を少し下げ、真田家の方角を振り返った。
下腹に手を当てる。
「赤ちゃん……これからは、私たち二人だけ」
この子を授かるために、どれだけ苦しんだか。
体質的に妊娠しづらい身体で、毎日薬を飲み、注射を打ち、怪しい方法まで試した。そうして、ようやく。
なのに今日の木下は、やけに飛ばす。
真田家の坂道はいつも慎重で、車体も揺れないはずなのに――明らかに違う。
相馬蛍は眉を寄せた。
「木下、少しゆっくり……気分が悪いの」
いつもは恭しい木下が、返事をしない。
それどころか、アクセルを踏み抜いた。
下り坂で、その加速は致命的だった。
相馬蛍の背筋が凍る。前のシートに両手をつき、声を張り上げた。
「木下! 減速して!」
車は狂ったように走り続ける。前の男は微動だにしない。
制御を失う直前、木下が涙声で振り返った。
「奥さま……恨まないでください。俺、もうどうにもならないんです。賭けで借金を作って……妻と子どもを殺すって脅されて……水原初歌が金を出してくれた。借金を払う代わりに、奥さまを殺せって」
相馬蛍は理解した。考える暇などない。
「やめて! 彼女がいくら払ったか知らないけど、私が倍出す! お願い、止めて!」
怒鳴る声は掠れ、汗が額を伝う。
今は水原初歌がどうとか、そんなことはどうでもいい。
この子だけは――守らなきゃ。
相馬蛍は片手でシートを掴み、もう片方でドアの取っ手を引いた。開かない。
「木下! 今降ろしてくれたら、すぐに払う! それに、あの金で命を売る価値なんてない!」
木下の声は絶望に濡れていた。
「無駄です。車は細工されてる。俺が途中で気が変わらないように……奥さま、今日は死んでもらう」
次の瞬間。
車はガードレールを突き破り、崖下へ落ちた。
暗い海へ――真っ逆さまに。
涙なのか、潮風なのか。視界が一気に滲む。
過去が、コマ送りみたいに流れ込んできた。
十三歳の頃。真田辰則の成人祝いの日。
彼は冗談みたいに言った。
「蛍。大きくなったら、俺が嫁にもらう」
後になって知った。
真田辰則は水原初歌への告白に失敗し、たまたま目に入った自分に視線を移しただけだと。
それでも十三歳の相馬蛍は、嬉しくて一晩中眠れなかった。
昔から辰則兄さんが好きで、厚かましく後ろをついて回り、遊びに連れていってとせがんだ。
そして本当に、二十歳――大学も卒業していないうちに、待ちきれず嫁いだ。
新婚初夜、十三歳の夜を思い出し、胸が甘く痛んだ。
だが現実は、容赦なく彼女を叩き起こした。
……
金糸苑。
水原初歌は真田辰則が水を注いでいる隙にスマホを確認し、届いたメッセージを削除した。
――相馬蛍。さようなら。
*
五年後。真田グループ。
照井平が社長室に入り、書類をデスクへ置く。
「真田社長。スポーツカーのデザイナーエイダが本日帰国します。HJグループが今回、彼女を指導役として派遣するそうです。真田グループとしては、歓迎会を――」
真田辰則は「エイダ」という名に、なぜか指先が止まった。
資料を取り上げ、目を細める。
「……エイダ?」
「はい。対外的にはずっとエイダと名乗っていて……」
照井平の声は遠い。
真田辰則の視線は資料の一ページ目をなぞった。
エイダ。
そして、日本の名前は――相馬蛍。
彼の妻と同じ名前。
そんな偶然があるのか。
真田辰則は偶然を信じない。顔を上げ、照井平に問う。
「今日、到着だと言ったな。何時に着く」
照井平は腕時計に目を落とし、言葉を選ぶように答えた。
「あと一時間ほどでS市空港に」
言い終える前に、真田辰則は椅子の背に掛けていた上着を掴み、部屋を出た。
「空港へ行く。いつもの店を押さえろ。今夜、その新人デザイナーをもてなす」
照井平が我に返った頃には、真田辰則の背中はもう見えなかった。
車内で、真田辰則は自分の胸の鼓動をはっきりと聞いていた。
まるで太鼓の連打だ。
「長島、急いでくれ」
