第4章 過去

「誰?」

大きな瞳に、わざとらしい『知らないふり』の光がちらつく。

「まさか蛍姉の昔の男とか?」

「……」

相馬梓哉は、彼女の顔色がすっと沈んだのを見て、なおも畳みかけた。

「え、マジで昔の男なんだ?」

相馬蛍は平静を装って顔をそむける。

「考えすぎ。あの人、S市じゃ名の知れた人よ。ちょっかい出せるの、あんたくらい」

相馬梓哉は「へえ」と鼻を鳴らした。

「その『大物』も大したことないじゃん。人前で女にベタベタ触ってさ」

「……」

このガキ、どこでそんな口きくの覚えたんだか……。

相馬蛍はひと息飲み込み、梓哉を見据えた。

「人違いしただけでしょ。変なこと言わない!」

相馬梓哉は小さな頭をこてんと傾け、片手で顎を支えたまま、無邪気に笑う。

「蛍姉、なんか様子おかしくない?」

「どこがよ」

相馬蛍は大きな目で睨み返し、さっと話題を切り替えた。

「子どもは余計なこと言わないの。あとで江口おばさんに会ったら、ちゃんと礼儀正しくね」

その手の注意は、飛行機の中でも散々言われた。

梓哉は「はーい」と適当に返したあと、目をくるりと回して、また元に戻す。

「ねえ蛍姉。さっきの男、俺とちょっと似てなかった?」

その一言で、相馬蛍の表情がきゅっと固まる。

「……どうしたの。急に、なんでそんなこと聞くの?」

理由もなく胸がざわついた。

梓哉は昔から勘がいい。

今回の帰国は、相馬蛍にとって相当な綱渡りだ。

――怖い。

時々思う。せっかく生き延びたのに、わざわざまた泥沼に足を突っ込むべきじゃなかったんじゃないか、と。

梓哉は蛍の顔色が変わったのに気づき、慌てて言い繕った。

「違う違う。あの人、ギリ蛍姉に釣り合う顔してるなって思っただけ」

相馬蛍は、ようやく息を吐く。

「……ちっちゃいくせに、人を見る目だけはあるじゃない」

梓哉は彼女の言外の意味を聞き取ったらしく、ぱっと顔を輝かせた。

「おっ! 蛍姉が俺に同意した!」

相馬蛍はむっとして横目で睨み、指先で梓哉の額をつんと突いた。

「言っとくけどね。私があんたのだらしなさ見逃すのはこの二日だけ。数日したら江口おばさんに頼んで、あんた幼稚園に入れてもらうから」

そう言うなり、相馬蛍は両手で梓哉の頬をむにっと掴んで、思いきり揉んだ。

「そのとき今みたいに問題起こしたら、ほんとに殴るからね。分かった?」

相馬梓哉は必死に彼女の『魔の手』から抜け出し、悔しそうに敬礼する。

「OK! 命令は絶対遵守!」

*

一時間後。車を降りた相馬蛍は、迷いなくエレベーターのボタンを押して三階へ上がった。

江口霊の部屋の前に立つ。

見慣れた廊下、壁の色、空気の匂い。

そのすべてが胸の奥をかすめ、思考がふっと遠のいた。

相馬蛍と江口霊は、昔から親友だった。

蛍が十五のとき、実母が事故で亡くなり、父はかつての恋人と再婚した。

その継母とは折り合いが悪く、十六になった頃には、蛍は江口霊の家に転がり込むようにして暮らし始めた。

相馬蛍は玄関マットの下に手を伸ばし、そこに隠してあった鍵束を取り出す。

そして、ためらいなく扉を開けた。

「私の部屋は右手の二つ目。ひとつ目は江口おばさんの部屋だから、絶対入らないで。荒らしたら承知しないよ」

スーツケースを置き、靴を脱ぎながら言い聞かせる。

相馬梓哉は靴を揃えると、相馬蛍が昔使っていた部屋へ駆けていった。

部屋は、蛍が出ていった当時のまま。

江口霊がずっと掃除をして、物もきちんと保管していたのだろう。

まるで――帰りを待っていたみたいに。

梓哉は部屋をうろつき、机の前の椅子によじ登る。半開きの引き出しをそっと引いた。

中にはアルバムが一冊。丁寧に守られていて、今でも新しい。

アルバムを開くと、一枚目は江口霊と相馬蛍のツーショットだった。

江口霊の顔は、蛍のSNSで見たことがある。すぐに分かった。

梓哉の視線は、写真のもう一人の女に吸い寄せられる。

そこには、屈託のない幸福があふれていた。

顔立ちは今の蛍とまるで違うのに――梓哉には分かる。これが相馬蛍だ。

母子の勘、というやつか。

この数年の蛍姉は、こんなふうに笑っていなかった。写真の中の光とは、まるで別人だ。

梓哉は以前、黒木初が実の父親じゃないなら、本当の父親はどこへ行ったのかと聞いたことがある。

相馬蛍はいつも、笑って誤魔化した。重い病気で亡くなった、と。

でも不思議だった。

どんな病気なら、そんな話を笑って済ませられる?

蛍姉は、そこまで冷たい人じゃない。

だから梓哉は、それ以上聞かなくなった。

代わりに、初パパがこっそり教えてくれた。

梓哉は自分でネットで「相馬蛍」を検索した。

そこで見たものは、目を覆いたくなる内容だった。

梓哉は覚えが早い。蛍姉が丁寧に教えてくれたおかげで、四歳でも漢字をかなり読める。

五年前、真田グループ社長夫人が事故で崖から転落。

真田家の若奥様、相馬蛍は死亡――誰もがそう言った。

だけど梓哉は知っている。あれは事故なんかじゃない。

黒木初が教えてくれたのは、それだけじゃなかった。

さらに五か月後、クソ親父の『別の子ども』が生まれたことも――。

梓哉はページをめくる。学生時代の二人、成人してからの二人。

けれど後ろへ行くほど、相馬蛍の笑みは薄れ、瞳の光が静かに消えていく。

「梓哉、なにしてるの?」

その声に、梓哉ははっとして、反射的にアルバムをぱたんと閉じた。

引き出しへ戻し、代わりに机の上の人形を手に取る。

「蛍姉、昔こんな土人形みたいなの好きだったんだ?」

相馬蛍は肩をすくめる。

「私だって若い頃はあったの。お腹すいた? なにか作るよ」

梓哉はこくこく頷き、蛍の後ろをついて台所へ向かった。

「蛍姉、幼稚園行くならさ、クラス自分で選んでいい?」

相馬蛍は疑いもせず答える。

「いいよ。あとで江口おばさんが帰ってきたら、私から言っておく」

その瞬間、相馬梓哉の口元に、にやりとした笑みが浮かんだ。

小さな頭、大きな目。何か悪だくみしている顔。

相馬蛍はそれを見てしまい、胸の奥に小さな不安が差す。

今回の帰国は、ただ誰かに代償を払わせるためだけじゃない。

さらに――十数年前の、ある一件の真相を突き止めるためでもあった。

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