第5章 ハッカー侵入
食事を終えると、相馬蛍はそのまま台所へ向かい、食器を洗い始めた。
「チリン」
玄関のチャイムが鳴る。
「たぶん江口おばさんが帰ってきたんだと思う。先にのぞき穴で確認してから開けてね」
相馬梓哉は指令を受け取ると、ぴょこぴょこと駆けていった。
ドアの向こうに立っていたのは、短髪の綺麗なおばさん――相馬蛍の親友、江口霊だった。
「江口おばさん、おかえり」
ドアが開いた瞬間、
「……誰?」
江口霊は幼い声に視線を落とす。そこには、背が一メートルちょっとの小さな男の子が、ぱちぱちと大きな目を瞬かせながら見上げていた。
ああ、これが蛍と真田辰則の子か。
……もう、ほんとに。
あのクソ男にそっくり。とくにその目。綺麗なくせに腹が立つくらい似ている。
成長したら、もっと似ていくんだろう。
江口霊は家に入るとしゃがみこみ、首をかしげてにこっと笑った。
「どこのおうちの子かな~? こんなに可愛いのに」
男の子は小さな手を差し出す。
「こんにちは。はじめまして。相馬蛍は僕のママです。よろしくお願いします」
その瞬間、江口霊の顔がぱっと明るくなった。そっとその手をつまむように握り返す。
「口が上手い~。ママに似たね」
――よかった。父親に似たのは顔だけで。
江口霊は昔から子どもが大好きで、今は幼稚園の先生をしている。
相馬梓哉みたいに、顔も整っていて愛嬌もある子なんて、抗えるはずがない。
「よーし、おばさんがチューして、だっこして、たかいたかい!」
ふわっと宙に浮く感覚に、梓哉はきゃっと目を輝かせた。けれど楽しみながらも、口だけは容赦がない。
「きれいなおばさん、いい歳なんだから気をつけて。腕とか足とか」
江口霊の眉がぴくりと動く。
「え、ちょっと! いい歳ってなに! 二十代だし!」
そう言い返しつつ彼をそっと下ろし、今度は台所へ駆け込む。洗い物をしている女を後ろからぎゅっと抱きしめた。
「蛍ー! 会いたかった! 五年ぶりなのに、なんでそんなに痩せたの?」
蛍は横目で台所の外を確認し、梓哉が聞いていないと分かってから、ゆるく息を吐いた。
「この数年、忙しかったの。学校も仕事も、あと……あのガキの世話もね」
江口霊は蛍の横に回り込み、台に肘をついて覗き込む。そこでようやく、今の蛍の顔をまじまじと見て――思わず声が漏れた。
「え、やば……蛍って昔から綺麗だったけど、今もっと……! この顔、どこの先生の仕事? 不自然さゼロじゃん」
蛍は大げさに驚く親友を責める気にもならず、濡れたような瞳をふっと細めた。
「噂の黒木先生」
その名を口にした途端、表情が少しだけ柔らかくなる。
「この数年、ほんとに助けてもらった。あのとき先生が助けてくれなかったら……私、海で終わってたと思う」
江口霊は胸の奥がきゅっとなった。すぐに思い出したように言う。
「黒木家の人たち、蛍にちゃんとしてる? 嫌なこと言われたりしてない? 蛍だって元は――」
そこで言葉を飲み込む。
蛍は何を言いかけたのか分かっていた。洗い終えた皿を片づけ、コップに水を注いで一口飲む。
「人って、やったことの代償は払うものだよ」
あの頃の自分は、たしかに少し――いや、少しどころじゃない手を使った。
満たされない結婚を手に入れて、愛されない代償も、きちんと受け取った。
それでも江口霊は納得できない顔をする。
「でもさ、それ蛍のせいじゃないでしょ。真田辰則が下半身の管理できてたら、そもそも引っかからないじゃん」
「ていうか、最初から蛍に気があったんだよ。ずっと狙ってたの、むしろあっちじゃない?」
蛍は淡々と首を振った。
「ただの欲でしょ。あの夜、たまたま二人が喧嘩してるところに出くわさなかったら、私だって入り込む隙なんてなかった。結局、私は……場違いに割り込んだ余計な人間だっただけ」
過去を語る声は、驚くほど静かだった。
波ひとつ立たない。まるで他人の話みたいに。
江口霊は痛そうに眉を寄せる。
「……とにかく、戻ってきたんだし。ここからやり直そう。これからどうするの?」
蛍は潤んだ瞳を伏せ、何かを沈めるように息をついた。
「はぁ……計画なんてないよ。今回は公費での帰国だし。梓哉の幼稚園のこと、ちょっと頼りたい」
なぜだろう。江口霊は、親友が少しだけ遠くなった気がした。
「何言ってんの。うちらの仲で『頼りたい』とか『迷惑』とか言う? 蛍が私にかけた迷惑の数、忘れたの?」
それから目を細めて、いたずらっぽく囁く。
「で、今回はどれくらいいるの? ……今夜?」
蛍は即座に意味を察して、くすりと笑った。
「二、三年くらいかな」
*
その頃、相馬梓哉はこっそり蛍のスーツケースを開け、自分のノートパソコンを取り出していた。
指を軽く鳴らし、画面を開く。
狙うのは真田グループの社内ネットワーク。
梓哉のハッキング技術は、海外にいた頃に黒木初から教わったものだ。
まだ完璧とは言えないが、真田グループ程度の防壁なら――抜ける。
数分も経たないうちに侵入が通り、梓哉は画面を見つめたまま、年齢に似つかわしくない笑みを浮かべた。
蛍姉をいじめた代償が何か、教えてやる。
真田グループのビル内。全フロアのモニターが一斉に真っ黒になった。
次の瞬間、間抜けなアニメーションが流れ始める。
頭の上に「真田辰則」と表示された小人がのんきに歩いていると、突然犬に猛追され、転んでゴミ山に突っ込んだ。
滑稽で、みじめで、笑うしかない。
ビルのあちこちから、どっと噴き出す声が上がった。
社長室の真田辰則は、こめかみがぴくぴくと脈打っていた。
照井平は額の汗を拭い、言葉を選ぶ。
「真田社長……動きますか?」
真田辰則はこの手のことに長けている。犯人を掴むのは難しくない。
だが、相手が何をしたいのかを見極めたかった。
すると、アニメが終わると同時に、画面は何事もなかったかのように復旧した。
照井平は息を殺すように報告する。
「技術班が侵入元を追跡中です。数分で結果が――」
真田辰則は冷えた目でファイルを一つずつ確認した。
案の定、改ざんの痕跡がある。
*
一方、相馬梓哉はデータの書き換えを終え、さらに追い打ちをかけようとして――相手が動き出した気配に気づいた。
このまま粘れば、捕まる。
梓哉は即座に電源を落とした。
真田側の追跡は、ちょうど一秒遅れたはずだ。おそらく、何も掴めていない。
梓哉はパソコンを閉じ、ふうっと息を吐く。
「梓哉……」
近づいてくる足音と一緒に、相馬蛍の声がした。
梓哉は慌ててパソコンを押しやり、ベッドにもぐり込んで布団をかぶる。すやすや寝たふり。
蛍が入ってくるなり、すべて見抜いたように、まだ熱の残る端末に手を当てた。
「えらいね。三十分も遊ばずに電源切れるなんて」
この子がそんな聞き分けいいわけがない。
梓哉は観念して起き上がり、蛍の脚にぎゅっと抱きつく。
「だって約束でしょ、毎日三十分! 僕、今日はすっごくいい子だったよ? 蛍姉、ごほうびちょうだい」
蛍は乾いた笑いを落とす。
「いいよ。ごほうびは、今夜は早く寝ていい。字の練習なし」
「えー、それごほうび?」
不満そうに口を尖らせたが、蛍の顔に疲れが見えたので、梓哉はしぶしぶ頷く。
「……まあ、いいや」
蛍は少し迷ってから、ぽつりと言った。
「じゃあ、明日は……パソコン、もう三十分だけ増やす?」
……
蛍が梓哉を寝かしつけたあと、服を整え、丁寧にメイクをして部屋を出た。
ちょうど江口霊も部屋から出てきて、廊下で鉢合わせる。
江口霊はくいっと眉を上げ、声を潜めた。
「ねえ、私の今日の格好、どう?」
蛍は思わず吹き出した。
この親友は、何ひとつ変わっていない。相変わらず、遊び心だけは一級品だ。
