第9章 来る途中で犬に遭った
「初パパに聞いたんだ……」相馬梓哉は目をきらきらさせた。「蛍姉には言わないでよ。安心して。俺、蛍姉を一生守るって誓ったんだから」
声はまだ幼い。けれど、その言い方には疑いようのない芯があった。
江口霊は横目でちらりと見て、目を細める。
「黒木初が、あんたにそんなこと言うの?」
江口霊は信じなかった。――子ども相手ならまだしも。
「きれいなおばさん、俺のこと疑うの?」
相馬梓哉はぷうっと頬をふくらませ、怒りを隠しきれない顔で睨んでくる。
江口霊のオフィスは個室だ。梓哉はとことこと歩いて、彼女の近くの椅子に腰を下ろした。口元だけを吊り上げ、どこか大人びた笑みを浮かべる。
「きれいなおばさん、疑い深いのはよくないよ。初パパ、すっごくいい人だし。ロサンゼルスにいたときは、何でも俺に話してくれた。蛍姉のことが好きだって言ってたし。でも、誰にも言うなって」
江口霊は口角を上げたまま、目だけが笑っていない。こいつの話が本当か嘘か、いよいよ判別がつかなかった。
だから探りを入れる。
「このクソガキ。真田伊織のクラスに行く気? 何企んでんのよ」
ようやく腑に落ちたのか、江口霊ははぁ、と続けてため息をつく。
――大人の因縁を、なんで子どもに背負わせるのよ。
相馬梓哉は澄んだ黒い瞳を無垢に瞬かせる。
「きれいなおばさん、俺そういうのじゃないって。ただ、あのクソ親父の子どもがどんなやつか気になるだけ。ねえ、ちょっとだけ好奇心満たしてよ。お願い、お願い」
言い終えるなり、梓哉は「ばたばたっ」と小走りで江口霊のそばへ行き、見上げて甘えた。
江口霊は一瞬で陥落した。子どもに弱い。しかも、相馬梓哉は反則級に可愛い。
――ああ、もう。
……いいか。
子どもだし。無邪気だし。悪いことなんて、するわけない。
散々ねだられ、結局折れる。
江口霊は指を立てた。
「でも先に言っとく。ちゃんと大人しくしなさいよ。2組で余計なことしたら、あんたのお母さんに言いつけるからね」
相馬梓哉は素直にこくこく頷く。
「じゃあ、江口おばさんも蛍姉には言わないでね。蛍姉に余計なこと考えさせたくないし。これは――俺たちの秘密」
相馬梓哉は、目的を果たした。
2組は江口霊の友人が担任をしているクラスだった。江口霊は太田秀に梓哉を頼み、教室の後ろに残ってしばらく様子を見る。
教壇の上。相馬梓哉は太田秀の隣で行儀よく立ち、下の園児たちへ手を振った。
「みんな、こんにちは。相馬梓哉です。仲良くしてくれたら嬉しいです」
こてん、と首を傾げる。黒い瞳には子どもらしい無邪気さと、人懐っこさがきらりと宿っていた。
「今日から転入してきた相馬梓哉くんです。みんな、仲良くしてあげてね」
太田秀がそう言うと、子どもたちから「はーい!」と元気な返事が返ってくる。
相馬梓哉はさりげなく、こちらに露骨な軽蔑を向けてくる真田伊織を一瞥した。だが返したのは、にこりとした友好的な笑み。
真田伊織が目を丸くする。
相馬梓哉は真っ先に、伊織の隣の空席へ向かった。そして太田秀に言う。
「太田先生、俺、ここに座っていい?」
さっきまで騒がしかった教室が、半分ほど静まり返った。
――あの「嫌われ者」と一緒にいるの?
相馬梓哉は入った瞬間に気づいていた。真田伊織は、みんなから仲間外れにされている。
……
相馬蛍が幼稚園に来たころ、江口霊は電話を受けて教室を出た。
赤く腫れた蛍の頬を見た瞬間、江口霊の足が止まる。
「ちょっと、どうしたのよ! 客に会いに行くって言ってたでしょ。まさか客に殴られたの?」
「……あいつら、あんたを殴ったの?」
相馬蛍は江口霊の腕に自分の腕を絡め、さらりと笑って流した。
「客じゃないよ。来る途中で犬に会っただけ」
江口霊は半信半疑で、蛍を上から下までじろじろ見る。
「どんな犬よ。あんたの顔に届く犬って」
「もう、違うってば」
適当にかわす蛍に、江口霊は納得しないまま腕を引いて歩幅を速めた。後ろで蛍が困ったように首を振る。
――この子、また怒ってる。
江口霊は蛍をオフィスへ引きずり込み、ドアを「バンッ」と乱暴に閉めた。
「さあ言いなさい。出かけたと思ったら、なんでケガして帰ってくんの」
江口霊は冷蔵庫から冷えた炭酸飲料を一本取り出し、むっとした顔で投げてよこす。
「別に、何でもないって」
蛍は平然と受け取り、缶を頬に当てた。冷たさに思わず「っ……」と息を吸い、眉を寄せる。
その我慢強い顔を見て、江口霊の堪忍袋が切れた。
「相馬蛍! あんた、どれだけ私に隠してんのよ! 海外で五年もいたんだから、少しは強くなったと思ったのに。まだ人にいじめられるわけ?」
江口霊の目が一気に赤くなる。
「結果どうよ。ちょっと外出しただけで、ビンタ食らって帰ってきたんでしょ。やり返したの?」
そして、はっとしたように机を叩く。
「……あんた、水原初歌のところ行ったんでしょ!」
相馬蛍は淡い目で江口霊を見返し、取り繕うように笑った。
「全部話すから、声小さくして。万が一、同僚に聞かれたらどうするの」
江口霊は目を細める。
「形なんてどうでもいい。さっさと吐きなさい。誰が殴ったのよ。今すぐ行って潰してやる」
相馬蛍は観念して、さっき真田グループで起きたことを、最初から最後まで包み隠さず話した。
聞き終えた江口霊は、しばらく黙ったまま蛍のそばへ歩き、じっと睨むように見下ろす。
視線に耐えきれず、蛍は椅子にもたれて距離を取る。
「え、ちょっと……話すなら話すで、手は出さないでよ」
江口霊は、逆にやわらかく笑った。
「それで? そうやって真田辰則の同情でも買うつもり?」
「自分のこと、そんなに粗末にしていいわけ?」
次の瞬間、声が氷みたいに冷える。
「ロサンゼルス行って、妙に自信つけたのね。真田辰則みたいな冷血な男が、突然現れた女のために、自分の高嶺の花を苦しめるって? 本気で思ってるの?」
相馬蛍は落ち着いて首を振る。
「同情を買うつもりじゃない。叩かれたなら、当然取り返す。それに、真田辰則がどういう男か忘れてない」
「ならいいけど」江口霊は唇を尖らせた。「あんた、昔どれだけ恋愛で頭いっぱいだったか知らないでしょ」
相馬蛍は真顔で言う。
「約束する。今回は、絶対に損しない」
江口霊はまだ腕を組んだまま、じっと見据える。
「じゃあ聞く。今回の落とし前、どうつけるの?」
「忘れたの? 私はHJの代表として真田グループに技術指導で入ってる。そんな私が、真田グループのビルの前で真田奥様に侮辱されて、しかも手まで出された。……見てた人、いっぱいいた」
相馬蛍は口元を薄く歪める。
「今回は、水原初歌を絶対に許さない」
親友の江口霊は、その剣呑な顔に耐えきれず、ふっと笑い声を漏らした。
「で、これからどこ行くの?」
