第1章
有岡里穂は壁に手をつき、蒼白な顔で採血室から出てきた。腕には針の跡がいくつも点々と残っている。
今月だけで、これが三度目の採血だ。鉄でできた身体でも、こんなことを繰り返されたらもたない。
「安菜、具合はどうだ? まだふらつくか?」
そのとき、隣の病室から聞き慣れた声がした。有岡里穂は足を止める。
一番上の兄・有岡隼人の声だった。隼人兄さんがこんなふうに誰かに優しく話しかけるのを、彼女はもう長いこと聞いていない。
けれど、その優しさは自分のものではない。向けられている相手は――西川安菜。うちの使用人の娘。
「大丈夫です、隼人兄さん」西川安菜が、弱々しく甘えた声で返した。「それより……里穂さん、平気でしょうか? 私のためにあんなに血を抜かれて、きっとつらいですよね……」
「つらいも何もあるかよ」二番目の兄・有岡哲哉が割り込む。声には露骨な嫌悪が滲んでいた。「血をちょっと抜いただけで死にゃしない。お前は優しすぎるんだよ。あいつに階段から突き落とされて、あれだけ怪我したのに、まだ庇うのか?」
有岡里穂の指先が、じわりと握りしめられる。
自分は西川安菜を突き落としてなどいない。あの日、足を踏み外したのは西川安菜のほうだ。里穂は手を伸ばして掴もうとしただけ――なのに逆に押し返され、自分が階段を転げ落ちた。
起き上がったときには、西川安菜は隼人兄さんの腕の中で泣いていて、他の二人の兄もまた、有岡里穂を極悪人を見るような目で見ていた。
「まったくだ」三番目の兄・有岡健太が冷笑する。「有岡里穂みたいな性根の腐ったやつは、優しくすりゃするほど付け上がる。あんなの、俺の妹でもなんでもない」
「でも……」
「でも、じゃない」有岡隼人が遮る。「お前は身体を休めろ。ほかは気にするな。医者が言ってた。この週、もう一回輸血が必要だ。有岡里穂をまた呼べばいい」
また――来い、だって?
有岡里穂は全身が震え、慌てて病室へ身を滑り込ませた。壁にもたれ、目の奥がつんと酸っぱくなる。
十九歳。体重は四十キロにも満たない。
初めて採血したとき、看護師は眉をひそめて言った。
「この体格で、この量は無理がありますよ」
それでも誰も聞かなかった。
兄たちは彼女を半ば力ずくで病院へ連れて来て、ベッドに縛りつけ、医師に命令して採血させた。
もうあんな痛みは嫌だ。ここから逃げたい。
有岡里穂が必死に逃げ道を探したその瞬間、病室の扉が勢いよく開いた。
隠れる暇もなく、二番目の兄・有岡哲哉と鉢合わせる。
「ここで何してる」哲哉の視線が一気に冷たくなる。「盗み聞きか?」
「わたし……」里穂は口を開いたが、言葉が出てこない。
言っても無駄だ。
「里穂さん、大丈夫?」西川安菜が幽かな声で言った。顔には心配そうな表情が貼り付いている。「ごめんなさい……兄さんたちも私のことが心配で、献血をお願いしただけなんです。責めないでくださいね。責めるなら、私を……」
「責める資格なんてあるかよ」有岡健太が鼻で笑う。「蛇みたいに性根の悪い女が、お前に血をくれてやれるだけでも光栄だろ」
有岡里穂は顔を上げ、ベッドの上の少女を見た。
西川安菜は枕に凭れ、細い身体をさらに小さく見せている。潤んだ大きな瞳がぱちぱちと揺れ、長い睫毛が震える――怯えた小鹿みたいに。
誰が見ても守ってやりたくなる顔。
そして有岡里穂は、かつてその顔に騙された。
三年前。西川安菜は有岡家の前に跪き、母が亡くなった、父は重病だ、行く場所がないと泣き縋った。
里穂は情にほだされてしまった。使用人の娘を追い返せば、有岡家のお嬢様が冷たいと陰口を叩かれる。そう思ったのも大きい。
彼女は兄たちに取り成し、安菜を家に置くよう頼んだ。妹のように扱い、良い部屋を与え、同じブランドの服を着せ、こづかいまで半分に分けた。
それなのに安菜は感謝などせず、事あるごとに彼女を陥れた。自分を「名家のお嬢様に虐げられる可哀想な子」に仕立て上げ、兄たちの寵愛を少しずつ奪っていった。
最初、里穂は自分が悪いのだと思った。お嬢様気質が誤解を生んだのだと。だから必死で機嫌を取り、必死で良い子を演じ、兄たちがまた昔のように自分を可愛がってくれる日を夢見た。
――全部、無駄だった。
何をしても兄たちの目には「悪」に映った。安菜が転べば、里穂が突き飛ばしたと決めつける。
両親は海外を飛び回り、家の実権は兄たちが握っている。有岡里穂はあっという間に「この家で一番愛されない存在」になった。
里穂が黙っていると、哲哉が乱暴に踏み込み、腕を掴んだ。
「何話してんだよ。安菜に血をやりに行け」
「……え?」里穂は反射的に身を引き、信じられないという顔で見返した。
「安菜の状態がよくない。もう一回、採る」隼人が扉口に立ち、彼女を見る目には冷たさしかない。
西川安菜はその横で、まるで合図みたいにこほん、と咳を二つ。
「無理……もう採れない。採ったら、死ぬ!」里穂は必死に首を振った。生きたいという本能が抵抗させる。
「脅すなよ」哲哉が嗤う。「お前は有岡家で贅沢して育ったんだ。血を少し抜いたくらいで死ぬか」
「本当に……死ぬ……」里穂は哲哉の袖を掴み、声を震わせた。「哲哉兄さん、お願い。数日だけ休ませて。回復してからじゃダメ?」
哲哉はその手を振り払った。
「可哀想ぶるな。安菜は今すぐ血が要るんだ。俺に数日待てって?」
「でも、わたし……」
「縛れ」隼人が聞く耳もたず命じる。
ヘルパーが二人入ってきて里穂を押さえ、外へ引きずり出そうとした。
里穂はもがいたが、弱り切った身体では振りほどけない。採血室へ押し込まれる、その寸前――彼女はヘルパーの手に噛みつき、窓へ走った。窓枠にしがみつき、爪が白くなるほど力を入れる。
「来ないで! 来たら……飛ぶ! 飛び降りるから!」
自分でもどこから出た勇気か分からない。声を張り上げる。
兄たちは顔を見合わせ、動きを止めた。
西川安菜がわざとらしく宥める。
「里穂さん、そんなことしないで……あなたは有岡家のお嬢様なんだから、自分の命を大事にして……」
それを聞いた途端、さっきまで迷いが見えた哲哉がすぐ乗った。
「そうだ! お前みたいな見栄の塊が、有岡家のお嬢様って肩書きを捨てて死ねるわけないだろ」
里穂は怒りで震え、声を上げて泣いた。
「わたしは……あなたたちの本当の妹でしょう! 昔はあんなに優しかったのに、どうして今は……!」
「昔の話をするな」隼人が顔を曇らせる。「お前が安菜を階段から突き落とすような真似をしなければ、こうはなっていない。全部、自業自得だ」
「だから、押してないって……」
「まだ嘘をつくか」隼人が目でヘルパーを指す。「引きずり下ろせ。みっともない真似をさせるな」
健太も嘲るように言った。
「飛べるもんなら飛べよ」
里穂は三人を見つめ、胸の奥が音を立てて崩れていくのを感じた。
ヘルパーの手が伸びる。
その瞬間、彼女は小さく言った。
「……分かった。望みどおりにしてあげる」
そして、身を投げた。
落下の一瞬、背後で悲鳴が重なる。
「……飛んだ? ほんとに?」
「救急車! 早く!」
その中で、隼人の声だけははっきり聞こえた。低く、ひそやかで、残酷に。
「……で、安菜の血はどうする?」
命の最後まで、兄たちが気にしたのは自分の血だけ。
こんな日々、もううんざりだ。
……。
次に意識を取り戻したとき、有岡里穂は泣き声で目を覚ました。
「里穂さん……お願い、私を置いてください……」
彼女は跳ね起きた。目に飛び込んできたのは見慣れたシャンデリア。――有岡家の屋敷。
「里穂さん?」泣き声は続く。「本当は来ちゃいけないの、分かってます。でも、母が病気で……私、行くところがなくて……」
里穂はゆっくり視線を落とした。古びたワンピースを着た西川安菜が床に跪き、涙に濡れた目でこちらを見上げている。
その横には、三人の兄。安菜に同情を浮かべている。
見覚えがありすぎる光景だった。三年前、西川安菜が初めて有岡家に来たときと、寸分違わない。
胸の奥で、突拍子もない考えが芽生える。
――まさか。
――私は、やり直している?
