第10章 連番のロールス・ロイス
渡辺の声が響いた瞬間、場の空気がすうっと凍りついた。
しばらくして、有岡隼人が渡辺を見た。
「……どういうことだ」
渡辺はすぐに背筋を伸ばし、きちんとした口調で説明する。
「昨夜、運転手が夜中に食あたりを起こしまして、そのまま病院へ行かれました。ですので今朝、里穂様はご自身でお車を運転して登校されました」
その一言が落ちた途端、有岡健太に宥められていた西川安菜の身体がぴたりと止まった。整った顔に、ありありとした驚愕が浮かぶ。
里穂が、自分で運転して行った……?
免許なんて持っていなかったはずなのに。
自分の思い違いだったと気づいたのか、有岡隼人の顔に、ほんの一瞬だけ気まずい色が走った。
運転手が休んでいたのなら、里穂がわざと運転手を外して安菜を締め出した――そんな筋書きは最初から成り立たない。
隼人は片手を軽く握って口元に当て、小さく咳払いをする。そして声を落とし、渡辺へ視線を向けた。
「知っていたなら、どうして先に言わなかった」
渡辺はきょとんとした顔で答える。
「西川さんが今朝、『自分で学校へ行けますから、言わないでください』とおっしゃいましたので」
言われたとおりにしただけです――そんな無垢な響きだった。
だが、その言葉を横で聞いた西川安菜は、内心で血を吐きそうになっていた。
そういう意味じゃないでしょう!
本気で黙っていてほしかったわけじゃないのに!
それでも、ここで取り乱すわけにはいかない。自分が作り上げてきた“慎ましく健気な女の子”を壊すわけには。
安菜は無理やり感情を飲み込み、こくりと頷いてみせた。
「隼人お兄ちゃん、こんなの大したことじゃないです。前の家でも、毎日1時間歩いて学校に通ってましたし」
そう言って俯き、自分のつま先を見つめる。その仕草は小動物のようにおどおどとしていて、ひどく憐れを誘った。
「もう慣れてます。里穂さんが私を乗せたくなくても……平気です」
言い終えて顔を上げた安菜の目は、いかにも相手を責めていないふうに、理解を滲ませていた。
けれど心の底では、妙な不安が消えない。
目の前の有岡里穂は、あまりにも落ち着き払っていた。まるで最初から全部を見通して、少し離れた場所から茶番を眺めている観客みたいに。
その静けさが、逆に不気味だった。
――まさか。
――私、何か尻尾でも出した?
「平気なわけないだろ」
ぴしゃりと言ったのは有岡健太だった。
「有岡家に来た以上、これまでみたいな苦労をお前にさせるわけにはいかない。第一、自分で運転してたから何だっていうんだ。ついでに乗せてやるくらいできただろ」
どう考えても里穂のやり方はよくない――健太はそう決めつけているようだった。
その横で、有岡哲哉が少し意外そうに里穂を見る。
「前は運転なんて怖いって言ってただろ。いつの間に免許なんか取ったんだ? 俺には何も言わなかったのか」
その一言に、凍えていた心臓が、かすかにとくりと脈打った。
責める声ばかりが飛んでくる中で、ようやくひとつだけ、自分へ向けられた言葉があったからだ。
里穂の声は、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「昨日、取ったばかりなの」
哲哉は小さく息をついた。
「そうか。だったらなおさら、安菜を乗せるくらい大したことじゃなかったはずだ。昨日は委託生としての初日だったんだし……里穂、今回はちょっと意地が悪いぞ」
その一言で、里穂の喉がひゅっと詰まった。
やっぱり――そうだ。
この人たちの目に映っているのは、西川安菜だけ。
自分はまだ、何を期待していたのだろう。
「哲哉お兄ちゃん」
里穂の声は、さっきよりもずっと冷えていた。
「言ったはずよ。免許を取ったのは昨日。自分ひとりで運転するだけでも精一杯なのに、まして人を乗せるなんて無理」
精巧に作られた仮面のような顔で、彼女は兄たちを見返す。理屈の立たない言いがかりを持って、自分を責め立てる“家族”を。
「それに、初心者の運転って危ないでしょう。私だって、新米のくせに人を乗せて、もし事故でも起こしたらって考えたの。西川さんの通学に支障が出たら困ると思ったから、先にひとりで出た。それから運転手が休みだったことは、今はじめて渡辺さんから聞いたわ」
一拍置いて、里穂は唇の端をわずかに吊り上げた。
「西川さんのことを考えて行動したのに、それでお兄ちゃんたちに責められるなんてね」
その皮肉を含んだ笑みに、三兄弟はそろって言葉を失った。
どこを切っても、里穂の言い分のほうが筋が通っている。
それを聞いた安菜も、胸の奥にあった疑念が少し薄れるのを感じた。
――やっぱり、有岡里穂は有岡里穂だ。
――ちゃんと私のことを気にして動いていたんだ。
そう思うと、ひそかに詰めていた息が少しだけ抜けた。
短い沈黙のあと、哲哉が諦めたようにため息をこぼす。
「……お前の言うとおりなら、今回はこっちの早とちりだったんだろうな。けど、里穂。安菜はここじゃ右も左も分からない。知ってる相手だって、俺たちくらいしかいないんだ。お前みたいに、生まれた時から何もかも持ってるわけじゃない。いちいち張り合う必要はないだろ。今日はこれで終わりにするから、明日からはもう少し面倒を見てやれ」
――これで終わりにする、ね。
里穂の目がさらに冷える。
傷ついたのが自分だから、“これで終わり”で済ませるのだ。
もし泣いていたのが西川安菜なら、きっとこんなものでは終わらない。何が何でも自分に頭を下げさせたはずだ。
「里穂さん、ごめんなさい……哲哉お兄ちゃんも健太お兄ちゃんも、私のことを心配しすぎただけなんです」
安菜がそっと里穂のそばへ歩み寄り、おずおずとそう言った。
その申し訳なさそうな顔は、まるで隼人たちが自分の本当の兄であるかのようだった。
以前の里穂なら、兄たちが安菜ばかり庇うたびに、自分を押し殺してきたかもしれない。
でも、今はもう違う。
本当に、どうでもよかった。
「安菜、お前が謝る必要はない」
静かに口を開いたのは隼人だった。
「ただの誤解だったなら、明日からは改めて車と運転手を手配する。安菜の登校に困ることはないようにするし、生活に必要なものも後で全部届けさせる」
西川安菜の傷ついた気持ちを埋めるように、その日のうちに大量の荷物が運び込まれた。
名の知れた高級ブランドの服、バッグ、靴。
ハンガーラックにずらりと並ぶそれらを見て、安菜は目を奪われた。
これほど多くの贅沢品を、一度に目にしたのは初めてだった。
まして、八百屋で白菜でも選ぶみたいに、その中から好きなものを選べるなんて。
かつての自分には、絶対に手の届かなかった世界だった。
翌朝。
家を出た里穂の目に飛び込んできたのは、西川安菜の姿だった。
ヴァレンティノの春物を身にまとい、髪にはミュウミュウのヘアピン。
頭のてっぺんからつま先まで、まるで本物の令嬢そのものだ。いや、下手をすれば、有岡家の生まれつきのお嬢様である里穂より、よほど“それらしく”見える。
おまけに隼人が用意したのは、有岡家の連番ナンバーがついたロールス・ロイスだった。
乗り込む前、安菜はわざとらしいほど明るく手を振った。
けれど里穂の視線が自分に向いていないと分かると、すぐに小走りで近寄ってくる。
「里穂さん、どうかな。私、似合ってる?」
その顔には、隠そうともしない得意げな色が浮かんでいた。
見て。
有岡家のお嬢様はあなたでも、今いちばん大事にされてるのは私――そう言わんばかりに。
里穂はそんな安っぽい見せびらかしに、一片の興味も示さなかった。
そのまま踵を返し、車へ乗り込む。
ばたん、とドアが閉まる。
安菜の言葉は喉の奥で詰まったままになった。
悔し紛れに窓を叩こうと身をかがめた、その瞬間――エンジンが唸りを上げ、車は矢のように正門を飛び出していった。
……やっぱり、嫉妬してるんだ。
遠ざかっていく車を見送りながら、安菜の唇に笑みがにじむ。
その笑みは、じわじわと大きくなっていった。
待ってなさい。
まだ、これは始まりにすぎない。
これから先、有岡家に残るのは西川安菜ひとり。
――いいえ。
そのうち、有岡安菜になるかもしれない。
臨市第一高校。
校門の内側は車両進入禁止になっているため、里穂は駐車スペースに車を停めた。
ドアを開けて降りた、その途端。
少し離れた場所で、ざわっと騒ぎが広がる。
「ロールス・ロイス!? しかも連番ナンバー! 誰だよ、あれ!」
