第11章 有岡家の使用人にすぎない
「このナンバー、前にオークションで見た気がする。有岡家が競り落としたって話だったよな」
言い終えるか終えないかのうちに、目ざとい誰かが反対側にいる有岡里穂に気づいた。
「え、有岡里穂ならあそこにいるじゃん。さっき停めて降りてくるの見たし……じゃあ、あの車から降りてくるの誰?」
「誰にせよ、普通じゃないってことだろ」
ざわめきの中心で、ロールスロイスのドアが静かに開く。
降りてきたのは、黄色いロングワンピースの少女だった。風がふっと吹き抜け、長い髪とスカートの裾が同時にふわりと舞う。
「……見覚えある」
「めちゃくちゃ可愛くない?」
「昨日来た委託生じゃない?」
「委託生って、誰?」
「臨市第一高校の委託生、1人だけでしょ。たしか西川安菜って……ほら、着てるの全部ブランドじゃん。金持ちすぎ」
声は小さくても、言葉は鋭く耳に刺さる。
西川安菜はその一つ一つを聞き逃さなかった。称賛が胸の奥の自尊心を膨らませ、背筋まで勝手に伸びていく。
――こういう視線を浴びる瞬間が、好き。
とりわけ、有岡里穂の目の前ならなおさらだ。
こうしていると、自分のほうが有岡里穂より上で、好かれていて、選ばれている気がする。
西川安菜は誇らしげに顎を上げ、柔らかそうに見える杏仁形の目を細めた。
「すみません、通してください」
「声まで優しい……さすが有岡家の人って感じ。育ちが出るよね」
「でも有岡家って娘さん1人じゃなかった? この子誰? 親戚? 相当近い関係でしょ。じゃなきゃ家の車で送ってこないって」
憶測はどんどん大きくなっていく。
当の西川安菜は笑顔を崩さず、視線だけを有岡里穂へ貼りつけたままだった。
「みなさん、私の身分が気になるみたいですけど……大したことじゃないんです」
立ち止まり、少し照れたように辺りを見回してから、続ける。
「私はただ、有岡家の――」
『親戚』と言い切る前に、人垣の後ろから声が飛んだ。
「何が?」
ちょうど見物している全員に届く音量。発したのは、有岡里穂だった。
本物の令嬢が口を開いたと分かると、人の波は気づいたように左右へ割れ、一本の道ができる。
有岡里穂は車のキーを指先でくるりと回しながら、白黒のはっきりした瞳で西川安菜を見据えた。
「続きを言えば? 有岡家の何になりたいの」
西川安菜の表情が一瞬で強張る。不安が喉元までせり上がった。
――でも、大丈夫。
隼人兄さんたちがついてる。有岡里穂だって、この場で「使用人の娘」なんて、あからさまに言えるはずがない。
そう思った瞬間。
有岡里穂の声が、雷みたいに落ちた。
「言えないなら、私が説明する。こちらはうちの使用人の娘、西川安菜」
口元には薄い笑み。けれど、黒い瞳の奥は曇っていて、光を通さない。
前の人生。
西川安菜は有岡家の名を使って顔を広げ、グループを作り、仲間外れと追い込みの手口を――全部、自分に向けてきた。
唯一の親友がそばにいてくれなかったら、あの悪意に、きっと耐えられなかった。
だから今回は、最初から芽を摘む。
有岡家の看板を貸してやるつもりは、1ミリもない。
「使用人の娘ってことは……給料、相当いいんだね。ヴァレンティノ着て、ミュウミュウ身につけられるなんて」
その一言で、周囲の温度が目に見えて下がる。
「だよねえ。福利厚生すごそう」
「家が太いのかと思った」
有岡里穂は首を横に振った。
「お母さんは亡くなった。面倒を見る人がいないから、兄たちが引き取ったの。学校に通えなくならないようにね。ただ、その代わり――お母さんの仕事を彼女が引き継いでる」
「え、それって……使用人ってこと?」
どこからか飛んできた一言が、刃物みたいに西川安菜の顔を切り裂く。
みるみる血の気が引き、表情が沈んだ。
「なにあの派手さ。どこのお嬢様かと思ったら、ただの使用人じゃん」
「勘違いさせようとしてたってこと?」
蔑み、疑い、嘲り。
さっきまでの羨望の視線は、一瞬で侮蔑に変わった。
西川安菜はその場に縫い付けられたように動けない。血が凍る、という言葉が本当にあるのなら、今がそれだった。
拳が勝手に握りしめられる。爪が掌に食い込み、痛みだけが理性を繋ぎ止めた。
――どうして。
こんな大勢の前で、こんな言い方で。
隼人兄さんたちも「ちゃんと面倒を見る」って言ってくれてるのに……どうして私に『使用人』を被せるの。
怒りは沸騰していた。けれどここで有岡里穂に噛みつくのは悪手だ。自分のやり方じゃない。
西川安菜は深く息を吸い、泣く準備を整えた。
「ごめんなさい、里穂さん。私のせいで恥をかかせてしまって……」
ぱち、と瞬きをした瞬間、大粒の涙が蛇口みたいにこぼれ落ちる。
「兄たちは、私が半分働きながら通うってだけで同級生に見下されないようにって……だから、こういう服も、車も……。私、せっかく勉強できるんです。絶対に無駄にしません」
一拍置いて、さらに追い打ちのように言う。
「もし里穂さんが、私が同じクラスなのを嫌だと思うなら……隼人兄さんにお願いして、クラスを変えてもらいます」
伏せた目、無垢を装った顔。
まるで、いまこの瞬間、有岡里穂が皆を使って自分をいじめているみたいに。
――相変わらず、上手い。
有岡里穂は表情を動かさず、ただ見ていた。
どこまで演じるつもりなのか、と。
その視線に刺され、西川安菜の泣き顔が不自然に止まる。目尻に添えた指が宙で固まり、心臓だけが太鼓みたいに鳴り続けた。
――どうして、止めてくれないの。
いつもなら私が弱く出れば、周りの目を気にしてでも里穂さんは折れてくれたのに。
沈黙が落ちる。
ざわざわした囁きが、ハンマーみたいに頭を叩き続ける。
「……それとも、里穂さんは学校で私に会いたくない、ですか?」
恐る恐る、声を絞る。
「有岡里穂、そんな人に見えないけどな」
「でも片方はお嬢様で、片方は使用人の娘だし。同じクラスとか、恥って思う人もいるかも」
「家でもお嬢様ぶっていじめてたとか?」
「――違う」
有岡里穂は、噂話をしていた相手をまっすぐ見た。
前の人生。
西川安菜の悪意ある流言で、自分は「家でいじめる側」になった。そういう視線を向けられるたび、うまく言い返せなかった。
西川安菜はいつも言った。
「誤解だよ、私が説明してあげる」
あの断言するような口ぶりも、味方の顔も、まだ鮮明だ。
――でも、その「説明」を、最後まで聞くことはなかった。
今は、もう待たない。
「西川君が働きながら学ぶ、その姿勢を私は見下したりしない」
視線を西川安菜へ戻し、静かに言葉を重ねる。
「それに、西川安菜は手際がいい。家事も、亡くなったお母さんに負けないくらいできる」
