第2章
有岡里穂はソファに腰を下ろしたまま、床に跪く西川安菜を見つめ、指先をわずかに握りしめた。
前の人生、彼女はまさにこの瞬間に情に流され、安菜を引き取ってしまった。そして、気づけば少しずつ居場所を奪われていったのだ。
三人の兄に押さえつけられ、血を抜かれ続けた記憶が脳裏に蘇る。背中に、じわりと冷たい汗が滲んだ。
「里穂さん……?」
里穂がいつまでも黙っているのを見て、安菜は涙で濡れた目を揺らし、嗚咽まじりに言った。
「……私を置いてくださらないんですよね。ごめんなさい。分かってます、私が図々しかったです。すぐ出ていきます……」
そう言って立ち上がろうとした途端、兄たちはほぼ同時に動いた。
「安菜、行くな!」
真っ先に庇うように前へ出たのは有岡哲哉だった。哲哉は里穂を振り返り、責める目を向ける。
「里穂、お前も何か言えよ。安菜は母親を亡くしたばかりだ。ひとりで外でどうやって生きるんだ?」
「そうだぞ」
有岡健太も歩み寄る。
「前はもっと優しかっただろ。見殺しにする気か?」
有岡隼人は何も言わない。ただ静かに里穂を見ていた。けれど、目の奥に滲む不満は隠しようがなかった。
その光景を見て、里穂の胸の奥に冷たい笑いが浮かぶ。
やっぱり。自分が首を縦に振ろうが振るまいが、三人はきっと、なんとしてでも安菜を住まわせる。
前の人生の自分は愚かだった。この時点でもう、兄たちの心は安菜へ傾き始めていたのに。
とはいえ、今の私はただの高校生だ。有岡家の庇護が必要で、今すぐ三人と決裂するのは得策じゃない。
変えられないなら、主導権を握ればいい。
里穂はゆっくり背筋を伸ばし、テーブルの温いコーヒーを手に取る。ひと口だけ口をつけてから、低く言った。
「……いいよ」
安菜の瞳に、ぱっと喜びが走る。
兄たちの表情も緩みかけた、その瞬間。
「ただし……」
里穂の声が、もう一度落ちた。
安菜をまっすぐ見据え、笑っているのに笑っていない顔で告げる。
「有岡家は、何もしない人は養わない。あなたのお母さんは、うちで何年も使用人として働いて、ずっと誠実だった。いまお母さんがいないなら――娘のあなたが代わりに、有岡家で働いたら?」
「は?」
真っ先に噛みついたのは哲哉だった。
「里穂、何言ってんだ。安菜はこんなに細いのに、使用人みたいな仕事ができるわけないだろ」
隼人も眉を寄せる。
「里穂、やりすぎだ。安菜は母親を失ったばかりだ。使用人にするなんて、外聞が悪い」
「隼人兄さんの言うとおり」
里穂は頷いた。口調はあくまで柔らかい。
「だからこそ、働いてもらうの。安菜は身寄りも学歴もないのに、理由もなく有岡家に住み込んだら、外からはあなたたち三人との関係を疑われる。でも労働の対価として衣食住を提供するなら、有岡家が善意で自立の機会を与えたって見える」
里穂は視線を安菜へ落とし、諭すように続ける。
「安菜、あなたのためだよ。変な噂、立てられたい?」
安菜の爪が掌に食い込む。
目の前の里穂は、どこかおかしい。
世間では『有岡家のお嬢様は優しいけど、少しお人好しで騙しやすい』と言われているのに、今の言葉には逃げ道がない。反論の余地すら潰されている。
安菜は助けを求めるように、家で一番発言力のある長男――隼人へ視線を投げた。
隼人は少し沈黙し、やがて口を開く。
「里穂、安菜は他人じゃない。そこまで線引きする必要はない」
「もちろん他人じゃないよ」
里穂は笑って受けた。
「だからこそ礼儀も教えるし、身内として将来のために厳しくする。可哀想だからって、怠け癖をつけさせるわけにはいかないでしょ」
ひとつ、ため息。
困ったように言う。
「私が間違ってるって思うなら、言ったことは忘れて。だけど私は最初に言ったとおり。有岡家は何もしない人は養わない。働くか、あなたたちが外で住まいを用意して生活費を出すか――それは自由」
言い切ると、里穂はカップを持ち直し、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。もう誰の顔も見ない。
兄たちは言葉を失い、互いに目を見合わせる。
反論したくても、筋が通りすぎていて崩せない。
安菜は立ち尽くし、表情が何度も揺れた。
本来なら今日のこの「跪き」で、里穂が昔みたいに情けをかけ、妹同然に迎え入れてくれるはずだった。
住み込み、三人を味方につけ、少しずつ里穂を追い出す――その道筋まで描いていたのに。
たった数言で、使用人の席に押し込められた。これでは将来、有岡家の奥さまになれるはずがない。
だが、ここで逃したら二度とこんな好機は来ない。
「……里穂さんの言うとおりにします」
安菜は歯を食いしばり、従順な笑みを作った。
「働きます。ここにいられるなら、それで……」
俯いた声は柔らかく、目には涙が残っていて、ひどく可哀想に見える。
兄たちはそれを見るだけで胸を痛めた。哲哉が何か言いかけ――隼人が目で制する。
「決まりだ」
隼人は里穂を見た。複雑な色を目に宿しながら。
「里穂、手配はお前に任せる」
里穂はカップを置き、品のある笑みを浮かべた。
「もちろん。安心して。安菜のことは、きちんと面倒見るから」
安菜の顔色が少し白くなる。言葉に棘がある気がしてならない。
案の定、兄たちが去ったあと――里穂は安菜の前へ歩み寄り、穏やかな笑顔で告げた。
「安菜、明日から使用人部屋ね。朝は6時起き。忘れないで」
「6時……そんなに早く?」
安菜が目を見開く。
「どうしたの?」
里穂は小首を傾げた。
「兄たち、7時には出勤するよね。朝食の準備をしないで遅刻でもしたら、責任取れる?」
安菜は奥歯を噛みしめる。
「……分かりました。6時で」
「よかった」
里穂は満足げに頷いた。
「安菜は出来る子だもん。今日は休んで。明日から本格的に仕事ね。何をするかは渡辺さんが教えてくれる」
安菜はその場に立ち尽くし、顔に貼り付けた従順さが剥がれ落ちそうになるのを必死で堪えた。
里穂は自室へ戻り、久しぶりにぐっすり眠った。こんなに安らかに眠れたのは、いつ以来だろう。
翌朝。
里穂はいつもどおり支度をする。顔を洗い、制服に着替え、リュックを背負って階段を下りると――裏庭から、くすくすとした笑い声が聞こえた。
気になって近づく。
そこには、ブランコに座る安菜がいた。白いワンピースの裾を風に揺らしながら、眩しいほどの笑顔で笑っている。
その背後で、有岡健太がブランコを押していた。表情は甘く、優しい。
健太は末っ子だ。会社は隼人が仕切り、外回りは哲哉が担う。健太は気ままに遊んで過ごす時間が多く、しまいには会社に顔を出すことすら億劫になっていた。
――だからこそ、安菜と一緒にいる時間が増える。
