第3章
有岡里穂は、ただ黙ってその光景を見つめていた。心はもう、とっくに麻痺している。
前の人生でも、こんな場面は一度や二度じゃなかった。
あの頃はただ羨ましかった。西川安菜があっという間に兄たちの輪に溶け込んでいくのが。血のつながった実の妹である自分のほうが、むしろ少しずつ他人みたいになっていくのが。
けれど今なら分かる。
あれは全部、西川安菜が少しずつ奪うためのやり口だったのだと。
そのとき、西川安菜が有岡里穂に気づいた。ぱっと笑みを引っ込め、怯えたようにブランコから降りると、おずおずと声をかけてくる。
「里穂さん……」
有岡里穂は、笑っているのにまるで笑っていない顔で言った。
「ごめんね。お二人の楽しいところ、邪魔しちゃった?」
西川安菜は一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐにうつむき、いじけたような声音になる。
「ごめんなさい……私、今すぐお掃除に行きます……」
「掃除なんかしなくていいだろ」有岡健太が眉をひそめた。「里穂、お前も安菜に働け働けって言いすぎだ。来たばかりなんだから、まずは慣れさせろ」
有岡里穂は彼をちらりと見ただけで、何も言わなかった。
「そうだ」有岡健太が何か思い出したように言う。「里穂、今日学校だろ? ちょうどいいから、安菜の入学手続きもしてやれ。同い年なんだし、学校でも一緒にいられる」
有岡里穂の指先が、きゅっと強張る。
考えるまでもない。こんな話を持ち出したのは、どうせまた西川安菜だ。
前の人生でも、健太兄さんはまったく同じことを言った。あのときの自分は頷いて、安菜の入学手続きを引き受けた。
その結果どうなったか。
西川安菜は学校へ入るなり、自分の取り巻きを作った。そして陰では毎日のように有岡里穂の悪口をばらまいた。金持ちの娘が家の力を笠に着て人をいじめる、使用人の娘である自分に嫉妬して、何かと突っかかってくる――そんな噂ばかり。
校内で飛び交う陰口のうち、十のうち八つは西川安菜の口から出たものだった。
それなのに、当時の有岡里穂はまだ愚かだった。
自分が心から優しくしてやれば、いつかきっと西川安菜も変わってくれる。そんなふうに本気で信じていたのだ。
――本当に、救いようがないほど馬鹿だった。
「里穂?」
有岡健太は返事のない彼女に苛立ったように眉を寄せた。
「聞いてるのか?」
「聞いてるよ」有岡里穂は我に返り、軽く頷く。「健太兄さん、安心して。学校には話しておくから」
有岡健太はようやく満足したように「そうか」とだけ言った。
西川安菜は顔を上げ、ぱっと表情を明るくする。
「ありがとうございます、里穂さん」
有岡里穂もにっこり笑い返す。
けれど、背を向けた瞬間。その笑みはすうっと凍りついた。
まだ学校に行く気でいるんだ。
寝言は寝て言えばいい。
学校に着き、教室へ足を踏み入れた瞬間だった。ひとつの影が勢いよく飛びついてくる。
「里穂! やっと来た!」
原口美愛――学校で一番仲のいい親友だ。
原口美愛は有岡里穂の腕にぎゅっとしがみつき、耳元でこそこそと囁いた。
「ねえ知ってる? また女の子が石野星紀にラブレター渡したんだって!」
石野星紀。
その名を聞いた途端、有岡里穂の眉がわずかに動く。
前の人生での婚約者。
有岡里穂が、五年も追いかけ続けた男。
家柄だけを見れば、石野家は有岡家に及ばない。けれど当時の有岡里穂は、そんなことも忘れるほど石野星紀に夢中だった。必死で機嫌を取り、必死で尽くし、兄や両親にまで泣きついて縁談を進めてもらった。
やがて有岡家のほうが折れ、ようやく両家の縁談はまとまった。
それでも石野星紀は、最初からこの婚約に乗り気ではなかった。有岡里穂に対しても、ずっと冷たいままだった。
それなのに彼女は、それを自分のせいだと思い込んだ。自分が足りないからだ、もっと頑張れば振り向いてもらえるはずだ――そんなふうに勘違いして、ますます彼に尽くしたのだ。
そして、有岡里穂が家で見放された途端。
石野星紀は真っ先に有岡家へ婚約解消を申し入れ、そのあと躍起になって西川安菜に近づいていった。
今思い返しても、笑えてくる。
「里穂?」
ぼんやりしている有岡里穂を不思議に思ったのか、原口美愛が目の前でひらひらと手を振る。
「どうしたの? ショックで言葉も出ないとか?」
「別に」有岡里穂は淡々と返した。「私には関係ないし」
原口美愛は目を丸くした。
いつもなら怒って飛び出していくはずなのに。今日の里穂は、どうにも様子がおかしい。
原口美愛が何か言いかけた、そのとき。
教室の入口がにわかにざわついた。
有岡里穂が何気なく顔を上げると、ちょうど石野星紀が入ってきたところだった。
白いシャツという簡素な格好なのに、妙に目を引く。整った顔立ち。涼しげな目元には、近寄りがたい冷たさがにじんでいる。
その隣には、金髪に青い瞳の美女。二人は何か楽しそうに話していて、女はころころ笑いながら、ごく自然に石野星紀の腕へ手を絡めた。
以前の有岡里穂なら、胸がずきりと痛んだだろう。下を向いて、こっそり涙を拭っていたかもしれない。
けれど今は違う。
心は驚くほど静かだった。
有岡里穂は視線を落とし、そのまま何事もなかったようにノートをめくり続ける。
二人が彼女のそばを通り過ぎたとき、石野星紀の足がふと止まった。
ちらりと振り返る。
だが有岡里穂はうつむいたまま、目も向けようとしない。
その瞬間、石野星紀の眉がぴくりと寄った。
おかしい。
いつもなら騒ぎ立てるはずなのに、今日は妙に静かすぎる。
居心地の悪さを振り払えず、石野星紀は数歩戻ると、有岡里穂の机の前で立ち止まり、こんこんと机を叩いた。
有岡里穂が顔を上げる。
その目は驚くほど落ち着いていた。
「何か用?」
石野星紀の眉間の皺が、さらに深くなる。
普段なら、自分から話しかければそれだけで飛び上がらんばかりに喜ぶくせに。
まさか、気を引こうとしているのか。
「さっき、俺のこと見なかったのか?」
不機嫌さを隠さない声だった。
「見たよ」有岡里穂はあっさり答える。
「だったら、なんで挨拶しない」
有岡里穂は本気で不思議そうに首をかしげた。
「どうして私があなたに挨拶しなきゃいけないの? 私たち、そんなに親しかった?」
石野星紀は言葉を失った。
有岡里穂が、こんな口のきき方をしてくるなんて思ってもみなかったのだ。
そこへ、金髪の美女が歩み寄ってくる。石野星紀の腕に絡みつき、にこやかに尋ねた。
「星紀、どうしたの?」
石野星紀は腕を振りほどこうともせず、むしろその女をぐっと引き寄せた。
そして、有岡里穂を見下ろすように顎を上げる。
「有岡里穂。こいつは俺の彼女だ。だからもう、これ以上俺につきまとうな」
「ふうん」
有岡里穂は顔も上げず、本に目を落としたまま答える。
「それはおめでとう」
石野星紀はその場で固まった。
顔色が、みるみる沈んでいく。
何か言い返したかった。だが周囲の視線が痛いほど刺さってくる。結局、胸の内に怒りを抱えたまま、自分の席へ戻るしかなかった。
金髪の美女は後を追いながら、弾んだ声で問いかける。
「星紀、今のって本当? 私、ほんとに彼女でいいの?」
だが石野星紀は、もはや相手をする気すらなかった。
耳障りだと言わんばかりに、冷たく吐き捨てる。
「うるさい。失せろ」
そうしてなおも、彼の視線は有岡里穂の背中に向けられたままだった。
――今日のこいつ、どこかおかしい。
