第5章 どうして彼女を助けないのか?

「健太兄さんは、あたしに何を言わせたいの?」有岡里穂は逆に問い返した。

有岡健太の顔がみるみる険しくなる。今にも怒鳴り出しそうになった、そのとき――西川安菜がふいに口を開いた。

「健太兄さん。私が勝手にふらついただけです。里穂さんは階段を上がろうとしただけで……入学試験のことが気になって、私が焦ってたから」

「……本当か?」健太は半信半疑のまま睨む。

安菜は小さく頷いた。

「うん。健太兄さん、里穂さんを責めないで」

その言葉で、健太の怒りは一度は引いた。引いたはずなのに、胸の奥の確信だけは消えない。どう考えても悪いのは里穂だ、と。

安菜は置かれた状況がつらい。母親も亡くしていて、この家では弱い立場だ。だから本当のことを言えないだけ――そんなふうに勝手に決めつけていた。

「庇ってるだけだろ」健太は冷たく言い放つ。「お前、あいつに押されて怪我したんだ。里穂は謝るべきだ」

有岡里穂は、胸の奥で乾いた笑いが弾けた。

たった数日だ。安菜が来て、もう健太兄さんは馬鹿みたいに守っている。

里穂は視線を落とし、その光景を見ないことにした。

「謝らなくていいです」安菜はそう言いながら、ちらりと階段上の里穂を窺う。

――さっきの転び方。玄関が開く気配を読んで、わざとだ。

有岡健太が入ってくるタイミングに合わせて倒れた。里穂に見せつけるために。兄たちが誰を大事にするのかを。

足首の腫れだって、もちろん演技の小道具。そうでなければ、こんなに「可哀想」が完成するはずがない。

安菜は涙を滲ませたまま、声だけは健気に整える。

「健太兄さん、足のことより、私……明日の入学試験が不安で。里穂さんが資料を学校に出してくれたおかげで、臨市第一高校が受験を許可してくれたんです。でも私、田舎の学校で……授業のレベルが違いすぎて、もし――」

言いかけて止める、その間があまりにも上手い。続きは『助けて』だと、誰にでも分かる。

その瞬間、玄関の扉が開いた。

入ってきたのは有岡隼人。安菜の言葉をちょうど聞いていたのだろう、表情を沈めたままネクタイを緩める。

「入学の件は、里穂がまとめて解決するべきだ」

里穂の顔色がわずかに変わった。

――隼人兄さんが絡むと、話は一気に厄介になる。逃げ道が消える。

里穂は息を整え、冷たさを飲み込んで言い返す。

「隼人兄さん。入学試験は臨市第一高校の伝統だよね。私はただの学生。どうやって『解決』しろっていうの?」

階段を下りながら、里穂は悟っていた。ここから外れることは、もうできない。

「有岡家の名があれば十分だろ」隼人の声が低くなる。

有岡家は臨市第一高校に長年寄付を続けている。校舎、設備、金――年にして百万単位。ねじ込もうと思えば、簡単だ。

けれど里穂は、笑みを崩さないまま切り返した。

「名を使って圧をかければ、入れるかもしれない。でもその後は? 臨市第一高校は学力主義。皆、正規の試験で入ってる。もし安菜が最初の『規則破り』になったら、周りは有岡家をどう見る? うちの誠実さや公平さを疑われたら、会社にまで火の粉が飛ぶかもしれない」

一拍置き、黒い瞳を真っ直ぐ安菜に向ける。

「その責任、西川安菜が取れるの?」

――取れるわけがない。

安菜は唇を噛み、泣く準備をして俯いた。だが、その前に隼人が淡々と結論を落とす。

「懸念は分かる。だが安菜は学びたい」

「学ぶななんて言ってないよ」里穂はあっさり笑った。「試験を受けるだけ」

そして柔らかな声のまま、刃をしまうように告げる。

「隼人兄さん、健太兄さん。私は安菜のために言ってる。試験まで少しは時間がある。勉強すれば間に合うよね。私は宿題があるから、先に行く」

言い終えるが早いか、里穂は足早に階段を上がった。

遅れたら捕まって、安菜の面倒を押しつけられる――そんな予感だけが背中を押していた。

二階で扉が閉まる音がして、ようやく安菜は現実に引き戻された。

――有岡里穂、どうして急に別人みたいに……?

今までなら、こちらが口を開けば何でもしてくれたのに。この二日、思いどおりになったことが一つもない。

もしかして、何か気づかれてる?

「安菜」健太が堪えきれず言う。「そんなに明日の試験が不安なら、今夜、俺が教えてやる」

安菜は意識を戻し、わざとらしく目尻を指で拭った。涙なんて出ていないのに。

「……ありがとう、健太兄さん」

その夜の詰め込みは、逆効果だった。

薄く覚えていた知識はごちゃごちゃに混ざり、試験当日、安菜は問題用紙を見ただけで頭がふらついた。まぶたが落ちて、机に突っ伏しそうになる。

試験が終わっても起きられず、教師に机を叩かれてようやく目を開けたほどだ。

結果は――不合格。しかも最下位。

夕方、有岡家に戻った安菜は俯いたまま、肩を落としていた。

「どうした?」有岡哲哉が気づいて声をかける。

その声を聞いた瞬間、安菜はゆっくり顔を上げた。大粒の涙が、ぽたぽたと落ちる。

「……臨市第一高校、行けません」

「行けない? なんでだ。誰が止めた?」哲哉は慌ててパソコンを置き、詰め寄る。「何があったんだ!」

リビングは静まり返り、安菜の嗚咽だけが響く。三人の兄は辛抱強く、やさしい声で慰めた。

隼人が眉を寄せる。

「学校で嫌がらせでも受けたのか。受験に行ったのに、里穂は付き添わなかった?」

安菜は首を振るだけで、何も言わない。

言わないからこそ、兄たちの胸は余計に痛む。

そこへ、玄関ががちゃりと鳴った。

哲哉が視線をやる。帰ってきた里穂の横顔が見えた瞬間、眉間に皺が刻まれた。

――安菜があんなに泣いているのに、こいつはなんで、そんなに機嫌がよさそうなんだ。

里穂は靴を脱ぎながら、スマホの画面に目を落として口元をわずかに上げた。

原口美愛からのメッセージ。

『入学試験で、途中で寝た人がいたらしいよ。図太いのか、よっぽど強いコネなのか』

里穂は指を動かし、返信する。

『落ちるの分かってて諦めたんじゃない?』

送信した、その瞬間。

目の前に背の高い影が落ちた。里穂が顔を上げると、哲哉の不機嫌そうな目と真正面からぶつかる。

「哲哉兄さん、何?」里穂は眉を上げた。

「安菜が学校で何かあった」哲哉の口調は尋問だった。「お前、知ってるか?」

里穂は身体をずらし、兄たちに囲まれて泣く安菜を一瞥する。

「知らない」

その一言が、哲哉の苛立ちに火をつけた。

家族なのに、どうしてこんなに無関心なんだ。

泣いているのに、慰める気配すらない。

――自分の妹は、いつからこんなに冷たくなった?

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