第6章 有岡家の教養は犬にでも喰わせたのか?
「里穂、お前……安菜と同じ学校なんだろ。今日が入学試験だって知ってたくせに、あいつがいじめられても知らん顔して、あまつさえ笑いものにしてたのか? お前には心ってものがないのか」有岡哲哉が顔を上げ、冷たく言い放った。
それを聞いた有岡里穂は、思わず笑いそうになった。
そして、すぐに問い返す。
「じゃあ兄さんたちは、私が授業にも出ずに、西川安菜が来た瞬間から一日中つきっきりで面倒を見てるべきだって言いたいの? それとも、臨市第一高校みたいな学校で、授業中にいきなり大勢が出てきて、まだここの生徒ですらない子を寄ってたかっていじめると本気で思ってるわけ?」
言い終えた途端、さっきまで責め立てていた二人はそろって黙り込んだ。
……たしかに、一理ある。
空気の流れが変わりかけたのを察し、西川安菜は慌ててしゃくり上げながら口を開いた。
「哲哉お兄ちゃん、健太お兄ちゃん、私、いじめられたんじゃないの……私がダメだっただけ。出来が悪くて、臨市第一高校に受からなかっただけなの……」
そう言うそばから、涙が堰を切ったようにぽろぽろとこぼれ落ちる。
里穂は目を細め、淡々と言った。
「へえ。つまり、落ちたからそんなに泣いてるんだ。で、それが私と何の関係があるの?」
「安菜が落ちて、お前は嬉しいのか?」有岡健太は言うほどに苛立ちを募らせていく。「家族だろ。安菜が入学試験に受からなかったなら、普通はどうにかならないかって考えるもんじゃないのか」
どうして自分の妹が、こんなふうになってしまったのか。
健太にはそれが分からなかった。
里穂は肩をすくめる。
「悪いけど、考えない。あの子が臨市第一高校に入れるかどうかなんて、私には関係ないし。そもそも人って、自分の力に見合わないものには手が届かないでしょ。だったら入れないのは当然じゃない」
その言葉が落ちるたび、西川安菜の顔色は目に見えて悪くなっていった。
両脇に垂らした手は、いつの間にかぎゅっと拳を作っている。
このまま有岡里穂に喋らせていたら、臨市第一高校に入れないのは全部自分の実力不足だと、そういう話になってしまう。
「……私なんかじゃ、臨市第一高校に通う資格なんてないんだと思います」西川安菜は声を震わせた。「やっぱり田舎に戻って、向こうで勉強を続けます。今から荷物をまとめて帰ります。お兄ちゃんたち、今までありがとうございました」
くるりと背を向けようとした、そのとき。
「安菜、お前はどこにも行かなくていい」
有岡隼人が、低い声で言った。
西川のおばさんが生きていた頃、この家は本当によく支えられていた。
小さい頃から彼ら兄弟の世話をしてくれた人でもある。情がないはずもない。
その人が亡くなった今、西川安菜を引き取った以上、できる限りのものを与えたいと思うのは当然だった。
まして、田舎へ帰して、あのろくでもない父親のもとへ戻すなどあり得ない。
それでは西川のおばさんに顔向けできないし、有岡家のやり方にも反している。
何より、安菜は本当に気立てがよく、聞き分けのいい子なのだ。
西川安菜はうつむいたまま、すすり泣いた。
「でも……私、ほんとはまだ勉強を続けたいの……」
「臨市第一高校の問題自体が難しいんだ」哲哉が声をやわらげ、なだめるように言う。「前の学校は環境だってよくなかったんだろ。それはお前のせいじゃない」
「そうだよ」健太もすぐに続いた。「悪いのは教育格差だ」
里穂は冷えた目で、二人の兄が西川安菜のそばへ寄り、背を軽くさすって慰める様子を見ていた。
こんな芝居、もう見飽きた。
どうせ西川安菜が見せたいのは一つだけだ。
今、兄たちが気にかけ、守ろうとしているのは、自分ではなく西川安菜なのだと――それを、里穂に思い知らせたいだけ。
「私も……里穂さんみたいに頭がよかったらよかったのに」西川安菜が、いかにも痛ましげな目で里穂を見る。「そうしたら、入学試験で有岡家の顔に泥を塗ることもなかったのに……」
いきなり名を出され、里穂はわずかに眉を動かした。
――また、何か企んでる。
「里穂は子供の頃から上等な教育を受けてきたし、周りの環境だって何もかも一番いいものだった」健太が慌てて口を挟む。「成績がいいのは当たり前だ。むしろお前は、入学試験を受けに行っただけでも十分すごいんだよ、安菜。そんなに落ち込むな。たかが一度落ちたくらいだ。臨市第一高校じゃなくても、いい学校はいくらでもある」
そう言うや否や、健太はスマホを取り出し、条件に合いそうな学校を次々と調べ始めた。
けれど、西川安菜が欲しいのはそんな学校ではない。
欲しいのは――有岡里穂と同じ場所だ。
「でも、健太お兄ちゃん……臨市第一高校は一番教育環境がいい学校だし、ずっと憧れてたの。もし……私が入るのが迷惑になるなら、私……」
「迷惑なわけないだろ。入りたいなら入ればいい」
そう言ったのは、有岡隼人だった。
「……ほんとに?」西川安菜はぱっと顔を上げる。「私、本当に里穂さんと一緒に通ってもいいの?」
嬉しさを隠しきれない足取りで隼人のそばへ寄っていく。
もっとも、その途中でも足首を傷めたほうの脚だけは引きずるようにしていた。
隼人は目をわずかに上げ、そのきらきらと輝く瞳を見つめた。
そこに宿る期待の色に、胸の奥がかすかに揺れる。
「……ああ。まずは委託生として入ればいい」隼人は静かに言った。「授業についていけるようになったら、その時点でもう一度入学試験を受ければいい」
規則違反ではない。
外から文句もつけられにくい、悪くないやり方だった。
里穂は眉を軽く上げる。
――なるほど。たしかに、上手いやり方。
とはいえ、西川安菜が本当に入学してくるとなれば、自分にとっては厄介ごとが増えるだけだ。
そう思った瞬間、前世のあれこれが一気に脳裏へ押し寄せた。
里穂は眉間を押さえる。ずきり、と鈍く痛む。
「ありがとう、隼人お兄ちゃん! 臨市第一高校に入れたら、私、絶対にちゃんと頑張るから!」
西川安菜がぱっと花が咲くように喜ぶと、有岡家の三兄弟の表情にも、ようやくわずかな笑みが浮かんだ。
その流れのまま、健太が口を開く。
「どうせ同じ臨市第一高校に通うんだ。これからは里穂がお前の面倒を見てやればいい。同じクラスにしてもらえばいいだろ」
その言葉が落ちるや否や、里穂はさらりと言った。
「私、特進クラスだけど」
臨市第一高校の特進クラスは、市内でも名の知れた天才の集まりだ。
入れるのは、文字どおりトップ中のトップだけ。
入学試験すら通らなかった西川安菜が、そこへ――。
「……里穂さんは、私なんか成績が悪すぎて、特進クラスにいる資格もないって言いたいの?」
西川安菜のまつげに溜まっていた涙が、ぽたりと落ちた。
うつむいたまま、震える声で続ける。
「分かってる。私みたいなのが学校に行っても、きっと見下されるって……里穂さんが私と同じクラスになりたくないのも当然だよ。お兄ちゃんたち、私、別のクラスでいいから……学校では、里穂さんと他人のふりをするから……」
里穂はただ一言、事実を言っただけだ。
なのに、その先の筋書きは西川安菜が全部ひとりで仕上げてしまった。
いじらしくて、聞き分けがよくて、しかもひどく可哀想に見える。
まるで名女優だ。
どうして前世の自分は、こんな顔にころりと騙されたのだろう。
里穂は今さらながら、心底そう思った。
「里穂、その言い方はちょっとひどいぞ」健太が声を荒らげる。「安菜の成績を見下してるのか?」
「有岡家の躾はどうなってる」隼人の声は深い淵のように冷え切っていた。「西川のおばさんがあれだけお前によくしてくれたのに、その人が亡くなった途端、娘を見下すのか」
低く沈んだその声音には、触れたものを凍らせるような冷気があった。
