第7章 西川安菜をもっと気遣え
「安菜はお前のことをあれこれ気にかけて、学校じゃ他人のふりをしようって、自分から言ってくれたんだぞ。それなのにお前は、関係を切りたいとしか思ってない。どうしてそんなふうになった?」
有岡健太は怒りを抑えきれなかった。とりわけ有岡里穂を西川安菜と比べれば比べるほど、自分の妹がますますわけの分からない存在に思えてくる。
「私、そんなこと言った?」
里穂が淡々と返した、その一言で、さっきまで責め立てていた二人はふいに黙り込んだ。
有岡里穂には分かっていた。今この場で彼らと正面からぶつかっても、自分に得はない。まだ高校生の身で、今すぐ有岡家から離れられるわけでもないのだから。
そう思い、彼女はひとつ深呼吸をした。
「隼人兄さん、哲哉兄さん。入学試験すらまともに通れない人が特進クラスに入るのって、本当にその子のためになるの? まあ、西川安菜がそれでもいいって言うなら、私は別に構わないけど」
特進クラスの授業は甘くない。誰にでも耐えられるものじゃない。
西川安菜がついていけるかどうか――それは彼女自身の問題だ。
「お前に異論がないなら、それで決まりだ」有岡隼人が低く言った。「安菜が入学したら、ちゃんと面倒を見てやれ。放課後は勉強も見てやってくれ」
もともと口数の多い人ではない。けれど西川安菜のことになると、まるで際限がないみたいに世話を焼く。
こんな些細なことまで、自分の口でわざわざ指示するほどに。
有岡里穂は時々、本気で疑いたくなる。
自分と西川安菜は、実は取り違えられていたのではないかと。使用人の娘なのは、むしろ自分のほうなのではないかと。
けれど現実は、そんな滑稽な思い込みよりずっと単純だった。
ただ彼らは西川安菜が好きで、ただ自分が嫌いなだけ。
いつまでも返事をしない彼女に、有岡隼人はわずかに顎を上げた。切れ長の目が、まっすぐ里穂へ落ちる。
「聞こえなかったのか?」
有岡里穂は頷き、小さな声で答えた。
「分かった」
――もちろん、やるつもりはない。
前の人生で、心の底まで差し出しても何ひとつ報われなかった。
あの結末を知った今になって、また彼らのために尽くすほど馬鹿じゃない。
せっかくやり直せた人生だ。
自分の時間は、全部自分のために使う。
こんなことで兄たちと完全に決裂して、余計な面倒を背負う必要もない。今はまだ、やりたいことが山ほどある。
たとえば――免許を取ること。
前の人生では、西川安菜が入学手続きを終えたあと、真っ先に自分と一緒に登下校するようになった。有岡家の車は目立つ。だから周囲も自然と、西川安菜を有岡家の親戚だと思い込んだ。
それが、彼女が学校で人を集め、居場所を築く足場になった。
でも今度は違う。
その機会だけは、絶対に与えない。
西川安菜の委託生としての手続きが終わる前に、有岡里穂は信頼できる教習所を探した。
半月後。
西川安菜の委託生の身分がようやく確定したころ、里穂の手元にはもう免許証が届いていた。
有岡里穂は日焼け防止用のフェイスカバーを外し、鏡に映る少し焼けた自分の顔を見て、ふうと息をつく。
やっぱり、教習に通えば焼けるものは焼ける。
それでもいい。
欲しかったものは、ちゃんと手に入ったのだから。
前の人生では、石野星紀に「女の子が運転するのは危ない」と言われただけで、免許を取るのを諦めた。
諦めたのは免許だけじゃない。
やりたかったことも、やれるはずだったことも、いくつ捨ててきたか分からない。
有岡家の駐車場は地下ではなく、離れの脇に独立して造られている。
ずらりと並ぶ高級車は数十台。一目見ただけでも圧倒される光景だった。
里穂はここへ滅多に来ない。いつもは運転手が玄関先まで車を回してくれるからだ。
だからこそ、足を踏み入れた瞬間、ちょうど車から降りてきた有岡隼人と西川安菜の姿を見つけて、思わず目を止めた。
――最悪。
この時間に二人がいると分かっていたら、絶対に来なかった。
西川安菜と鉢合わせて、ろくなことになった試しがない。
そのまま踵を返して立ち去ろうとしたとき、目ざとくこちらに気づいた西川安菜が、遠くから声を張った。
「里穂さん!」
思いのほか大きな声だった。すぐに、運転席側から降りた有岡隼人もこちらを向く。
男は眉をひそめ、周囲をひと巡り見たあとで、視線を里穂に定めた。
「こんなところで何をしてる」
「別に。少し歩いてただけ」
有岡里穂はそれだけ言って、相手をする気もなく外へ向かう。
だが、二歩も進まないうちに、西川安菜がするりと前へ回り込んできた。逃がすまいとするように、ぴたりと行く手を塞ぐ。
「里穂さん、隼人兄さんが私の委託生の手続きをしてくれたの。明日から、私も里穂さんと同じように学校へ行けるんだよ」
弾んだ声。白黒の大きな瞳はきらきらと輝いている。
まるで本当に、仲のいい友達へ嬉しい報告をしているみたいな顔だった。
――その顔なら、もう見飽きた。
有岡里穂はまつ毛を伏せ、余計な感情を瞳の奥へ押し隠す。口元だけが、薄く持ち上がった。
「そう。おめでとう」
「それでね、明日から里穂さんと一緒に登校してもいい?」西川安菜は畳みかけるように言った。「学校で不安がないようにって、隼人兄さんが校長先生にお願いして、私を里穂さんと同じクラスにしてくれたの」
それでも足りないと言わんばかりに、さらに続ける。
「私、もう特進クラスの生徒なんだよ」
隼人さん、ではなく――隼人兄さん。
有岡里穂の唇の端に、ほんの一瞬だけ冷たい嘲りが走った。
西川安菜は本当に切り替えが早い。もうすっかり、自分を有岡家の一員だと思い込んでいるらしい。
けれど、そんなものにこれ以上時間を割く気はなかった。
「へえ。だから、もうどいてくれる?」
「その態度は何だ」
不快そうに、有岡隼人が口を挟む。警告を含んだ視線が里穂に刺さった。
有岡里穂は顔を上げ、まっすぐその目を見返した。
「隼人兄さんは、私にどんな態度を望んでるの?」
「安菜にちゃんと応じろ」有岡隼人の目は冷たいままだ。「あいつはただ、嬉しいことをお前と分かち合いたかっただけだ」
その視線にあるのは、西川安菜を庇う気配ばかり。
有岡里穂は可笑しくてたまらなかった。
向こうが共有したいからといって、どうして自分が足を止めてまで聞いてやらなければならないのだろう。
まるで自分の役目が、西川安菜の話し相手になることだけみたいだ。
有岡隼人に庇われて、西川安菜は胸の内で有頂天になっていた。
このところ彼女は、有岡家で三兄弟に何かと気を配り、里穂がいないときには妹役まできっちり演じてきた。
その甲斐あってか、三人の兄たちは日に日に彼女を気にかけるようになった。
特進クラスに入りたいと口にすれば、学校へ一棟寄付することすら厭わないほどに。
「隼人兄さん、里穂さん、たぶん機嫌が悪いだけだよ。聞きたくないなら、それでもいいの」
西川安菜は慌てて取り繕うように言った。
そう言いながらも、手のひらに収まりそうな小さな顔には、隠しきれない落胆が浮かんでいる。
そして一歩下がり、道を空けた。
「里穂さん、ごめんなさい。私が出しゃばりすぎたね。疲れてるなら、休んで」
有岡隼人は何か言いかけて、結局飲み込んだ。
意地を張って無礼な里穂と、聞き分けのいい西川安菜。その二人を見比べる。
最近、里穂は変わった。
しかも、よくない方向へ。
以前より刺々しく、以前より可愛げがなく、以前よりずっと人を苛立たせる。
「有岡家のしきたりを、もう一度学び直せ」
その言葉に、有岡里穂の足が止まった。
長いまつ毛が、白黒の瞳に影を落とす。
彼女は淡々と答えた。
「有岡家のしきたりなら、忘れたことはないよ」
そして顔を上げ、前を見据えたまま、一語ずつはっきりと言い切る。
「有岡家のしきたりは、西川安菜に合わせるためにあるわけじゃない」
