第9章 運転手が休暇を取った
有岡里穂は淡く笑った。
「そうとも限らないよ」
原口美愛が身を乗り出し、勢いよく有岡里穂の肩をばんばん叩く。
「何がそうとも限らない、だよ。絶対あんたでしょ。前の実力テスト、2位に十何点も差つけてたじゃん。あの問題、共通テスト並みに難しかったんだから」
「でもさ、今回は委託生が入ってきたし、クラスの順位って結構動いたりするのかな?」
有岡里穂はただ微笑むだけで、答えなかった。
教室のざわめきはまだ続いている。その一つひとつを、西川安菜は黙って聞いていた。
有岡里穂が学校でここまで人気者だなんて、思ってもみなかった。しかも成績までいいらしい。
自分はこのクラスに来て半日以上経つのに、声をかけてきたのはほんの数人だけ。対して有岡里穂の周りには、いつの間にか人が何重にも集まっていた。
こんなふうにちやほやされるのは、きっと有岡家のお嬢様だからだ。
――でも、私が有岡家でちゃんと居場所を固めれば。
そのうち皆、有岡里穂みたいに自分のことも持ち上げるようになる。
ただ、初日ということもあって、記入しなければならない書類や資料がやたら多い。あれこれしているうちに、あっという間に一日が終わった。
ようやく放課後。
朝は一緒に来られなかったのだから、せめて帰りくらいは一緒だろう――そう思っていたのに。
校門まで来たその瞬間、有岡家の駐車場で見かけたあの新型マセラティが、ひゅっと目の前を走り抜けていった。
西川安菜は、文字どおり血を吐きそうなくらい腹が立った。
校門前に立ち尽くしたまま顔をこわばらせるその様子が、バックミラーにくっきり映る。
有岡里穂はちらりと一瞥し、すぐ前へ視線を戻した。
西川安菜の運転手役なんて、まっぴらだ。
家に着くと、そのまま自室へ直行した。
高校3年の成績は重い。前の人生では石野星紀を追いかけることしか頭になく、学年1位から一気に最下位まで転げ落ちた。共通テストも散々で、まともな大学に届きもしなかった。
あの頃は本気で思っていたのだ。石野星紀と結婚して石野家に入るなら、学歴なんて大して重要じゃない、と。
今思えば、笑い話にもならない。
課題を半分ほど片づけたころ、唐突に、どんどんどん、と激しいノックが鳴り響いた。
有岡里穂は眉をひそめる。整った顔に、あからさまな不快がにじんだ。
「有岡里穂! 出てこい!」
有岡健太の怒鳴り声は、分厚い扉越しでもはっきり聞こえる。
相手にする気はなかった。何の用件かなんて、考えるまでもない。
だが向こうは引くつもりがないらしい。叩く音はさらに強くなる。
「いるんだろ! 出てこい! 出てこなかったら、そのドアごと外させるぞ!」
外の騒がしさはどんどん増していき、さすがに無視しきれなくなった。
有岡里穂はドアを開けた。
「健太お兄ちゃん、何か用?」
いきなり扉が開き、有岡健太は振り上げた手を半端な位置で止める。指先をわずかに引っ込めると、すぐに詰問してきた。
「お前、帰ってきたんだよな。安菜はどこだ?」
「私、あの子の保護者だったっけ? いちいち行き先まで把握してなきゃいけないの?」
有岡里穂は本気で不思議そうに言った。
「隼人兄さんが昨日言っただろ! 今日は安菜の初登校だから、一緒に行けって! なのにお前だけ先に帰ってきた。何考えてんだ!」
有岡健太は怒りで肩を震わせていた。
今日、少し早めに退社して帰る途中、たまたまバス停の近くで西川安菜を見かけたのだ。歩いて通学していたと知った瞬間、頭に血が上った。
あれだけ遠い道を、たった一人で。しかも兄たちには何も言わずに。
――安菜は優しすぎる。
有岡里穂はふっと笑う。
「何って、勉強だけど」
「お前は勉強、じゃあ安菜はどうなる!」
有岡健太はますます声を荒らげた。
ここまで言えば、有岡里穂も自分の非を認めて、西川安菜に謝る気になる――そう思っていた。ところが当の本人は、まるで自分が何か悪いことをしたという自覚すらない。
有岡里穂は首をかしげる。
「あの子が何しようと、私に関係ある?」
有岡健太は彼女を指さした。
「お前……! 下に来い!」
そう吐き捨てると、くるりと背を向けて階段を下りていく。
有岡里穂は小さくため息をついた。行かなければ、きっと延々と邪魔される。
どうせ時間を奪われるなら、一度で終わらせたほうがまだましだ。
だがリビングに入って、彼女はわずかに目を見張った。
そこにいたのは西川安菜だけではない。ほかの二人の兄まで揃っていたのだ。
西川安菜が来る前は、隼人お兄ちゃんは忙しさで家にもろくにいなかった。それが今では、屋敷の中で顔を合わせる回数が目に見えて増えている。
――本当に大事なんだ、この子のことが。
有岡里穂の足がリビングの床についた途端、低く掠れた声が落ちてきた。
「謝れ」
有岡隼人だった。
有岡里穂は即答する。
「謝る理由がない」
その一言で、有岡隼人の鋭い眼差しがまっすぐ彼女に向いた。怒りを孕んだ目だった。
「昨夜、お前は安菜を学校へ連れて行くと約束した。なのに、なぜ今日、あの子は一人で往復することになった」
抑え込んだ怒気が、言葉の端々に刃のようににじむ。
一方で、リビングの中央に立つ西川安菜は、うつむいたまま何も言わない。けれど伏せた瞳の奥には、隠しきれない高揚と喜びがきらついていた。
――ほらね。
有岡里穂がわざと自分を置いていったと兄たちが知れば、必ず怒る。そうなれば、里穂は約束を破り、自分を露骨に排斥する嫌な女に見える。
「隼人お兄ちゃん……きっと里穂さん、急に何か用事ができたんだと思うの。私に言う暇がなかっただけで……」
西川安菜は、弱い立場の人間として振る舞う術をよく知っていた。そうすれば一番得になることを、幼いころから身体で覚えてきたのだ。
「まだあいつを庇うのか。安菜、お前は甘すぎる」
有岡健太が吐き捨てる。
「ここから臨市第一高校まで、車でも30分はかかるんだぞ。里穂は運転手まで連れていって、こんな真似をした。いったい誰に恥をかかせたいんだ」
安菜はもう十分かわいそうな身の上だ。有岡家が引き取ったというのに、その先でもこんな扱いを受けるなんて。
こんな狭量で意地の悪い妹が家にいることを、兄たちは恥じていた。
有岡里穂は一通り聞いて、ようやく頷く。
「つまり、西川安菜が一人で通学した、その一点だけで、私を吊るし上げるために集まったわけね」
部屋を見回す。
兄たちの表情はいずれも険しい。空気は重く張り詰め、息を吸うだけで胸が窮屈になるほどだった。
「その一点だけ、だと?」
有岡哲哉が失望したように有岡里穂を見た。
「里穂、お前……いつからそんなふうになった」
有岡健太は西川安菜のそばへ歩み寄り、歯を食いしばって言う。
「お前には、この程度の想像力すらなくなったのか? お前はずっと運転手つきで送り迎えされてきたんだぞ。今さら安菜を一緒に乗せるだけだ。それすら嫌なのか!」
リビングの空気はさらにきしきしと硬くなる。誰が口を開いても、有岡里穂を責める言葉しか出てこない。
そのとき、脇に控えていた渡辺が、おそるおそる口を挟んだ。
「隼人様、哲哉様、健太様……何か行き違いがあるのではありませんか」
その一言で、視線が一斉に渡辺へ突き刺さる。
松明みたいに熱を帯びた眼差しにさらされ、渡辺は思わず額の汗を拭った。
有岡健太が鼻で笑う。
「行き違い? 何のだよ。有岡里穂が安菜を露骨に締め出して、わざと運転手まで連れていって恥をかかせた。それだけだろ」
渡辺は困ったように言った。
「ですが……昨夜、運転手は休暇をいただいております」
