第2章
空良視点
私はまだ、バスルームの床に座り込んでいる。膝を胸にきつく引き寄せて。大理石は冷たいけれど、動かない。
震える指でシャツのポケットからスマートフォンを取り出す。画面が光る。黄金色に輝くマサイマラの草原。夕焼けの下で草を食む数頭のクロサイ。
スワイプして写真ギャラリーを開く。走るヌー。チーター。キリン。親指でスクロールし続け、やがてその動きを止めた。
私の手が、凍り付いた。
花見大輔と花見沙羅、私の両親。カーキ色の作業着に身を包み、アフリカの夕日を背に立っている。二人の笑顔は明るく、本物だった。
「ごめんなさい、お母さん、お父さん」かろうじて囁きと呼べるほどの声で言葉が漏れた。
指が画面の上の二人の顔をなぞる。目が熱くなる。
「私のやり方は、きっと認めてくれないでしょうね。でも、マサイマラを破壊させるわけにはいかない。絶対に」
唇を強く噛みしめる。あれから十五年。もう十五年が経った。
スマートフォンの画面が滲む。私はもうバスルームにはいなかった。あのテントの中に、戻っていた。
ケニア。ツァボ国立公園。夜。空気を引き裂く銃声。
私は十三歳。テントの中に隠れている。両手で耳を塞いで。全身が震えている。
「空良、何があっても、絶対に出てきちゃだめ!」キャンバス越しにお母さんの声が突き刺さる。
「お母さん!」私は叫んだ。
「いいから、聞きなさい!」
さらに響く銃声。悲鳴。象の叫び声。そして、すべてが静まり返った。静かすぎるほどに。
レンジャーがキャンバスを持ち上げた時、私は見てしまった。血の海の中にいるお母さんとお父さんを。妊娠していた象も死んでいて、牙は奪われていた。
レンジャーが私を抱きしめてくれたけれど、涙は出なかった。ただ、二人の遺体を、あの象を見つめていた。あの夜、私は誓った。二人が始めたことを、私が終わらせる。どんな手を使っても。
十五年後。私は数々の賞を受賞する写真家になった。ナショナルジオグラフィックにも作品が掲載された。でも、稼いだお金のほとんどすべては自然保護活動に注ぎ込んでいる。たとえそれが、クリーンとは言えない手段を使うことになっても。
三ヶ月前、ケニアでマサイ族の長老が私を見つけた。「奴らが来る。金を持った金持ちどもだ。我々の土地を欲しがり、サイを追い出し、富裕層のための遊び場を建てようとしている」
私はその場で決意した。
瞬きをすると、バスルームのタイルが再び焦点に合った。
ガラパーティーから一週間後。新崎湾区。会員制のフィットネスクラブ。
将臣のスケジュールを割り出すのに三日かかった。毎週水曜日の午前十時、彼はここに来る。入会金と年会費で貯金はほとんど底をついた。それでマサイマラが救えるなら、安いものだ。
黒のスポーツタンクトップ。タイトなヨガパンツ。高い位置で結んだポニーテール。左前腕のライオンのタトゥーが見えるように。両親がケニアで過ごした日々の思い出だ。
私はクライミングウォールを登っている。将臣から見える角度を意図的に選んだ。私の動きは素早く、筋肉は引き締まっている。野生の中で生き延びてきた年月のおかげで、私の身体能力は普通の女性をはるかに超えている。
「ここで会うとは思わなかったな」下から将臣の声がした。
私は振り返り、驚いたふりをする。もう少しでグリップを失うところだった。将臣が前に出て、ウォールを支える。
「危ない」
私は飛び降り、汗を拭う。「将臣さん?すごい偶然ですね」
彼は眉を片方上げる。「偶然?君はビジネスマンがうろつくような場所は嫌いかと思ったが」
しまった。疑われている。
私は呆れたように目を向ける。「体形を維持しないと。アフリカの荒野での撮影は、公園の散歩とは違うんです。それに、ここのクライミングウォールは街で一番だから」
「そうか?」
彼はもっと近くに寄ってくる。「そのタトゥー。ライオンか?」
私は無意識にそれに触れる。「ケニアで出会ったライオンです。シンバと呼んでいました」私の声は和らいだ。「そこで育ったんです」
「育った?」
「両親が自然保護活動家だったんです。私が十三歳の時、密猟対策の作戦中に亡くなりました」
彼の表情が変わる。「それは……すまなかった」
一瞬、彼の言葉を信じそうになった。
私は無理に笑みを作る。「とにかく。あなたはクライミングを?それとも役員室に座って命令するだけ?」
将臣は笑った。本当に笑ったのだ。「ははっ、すっかりお見通しか」
私はウォールを指さす。「じゃあ、証明してください。競争しましょう」
私たちは並んで登る。私は意図的にペースを落とす。頂上近くで、グリップを「失う」ふりをする。将臣が手を伸ばし、私を捕まえる。私たちは二人とも宙吊りになったままだ。
お互いの息遣い、汗、心臓の鼓動が感じられるほど近い。
「ありがとう」私は息を切らしている。
彼は私の唇を見つめる。「次からは気をつけろ」
「ええ」
でも、どちらも動かない。ほんの数秒が、永遠のように感じられた。
クラブのプライベートラウンジ。将臣がエスプレッソを二つ注文した。
「それで。来月はケニアか?」
私は頷く。今度の熱意は本物だ。「マサイマラです。ずっとそこのクロサイを撮りたかったんです」私は一呼吸置く。「絶滅しかけていて。もう五千頭も残っていないんです」
「本気で気にかけてるんだな」
「当たり前です。今行動しないと、私たちの子供たちは博物館でしかこういう動物を見られなくなります」
将臣は一瞬、黙り込んだ。
「奇遇だな。俺の会社もそこでプロジェクトを進めている」
心臓が跳ね上がる。でも、表情は平静を保った。「まあ。どんな?」
彼はコーヒーを一口すする。「リゾート開発だ。富裕層向けのサファリ体験で、人々に野生動物と間近で触れ合ってもらう」
これだ。私が破壊すべきプロジェクト。
私は無理に笑みを作る。「素敵ですね。動物たちの生息地に配慮されているんでしょうね」
将臣が私を見つめる。初めて、彼は居心地が悪そうな顔をした。
「気をつけるさ」
空気が重くなる。彼女は彼を見つめる。彼の顎が引き締まる様子を。彼が彼女の視線を避ける仕草を。彼も分かっているのだ。心のどこかで、自分がしていることが間違っていると。だが、それこそが彼女の任務を難しくする。良心を持つ人間を裏切るのは、より困難なのだから。
スマートフォンの画面が暗くなる。私はバスルームに戻っていた。冷たい床の上に。二十分が過ぎていた。
深呼吸をして、立ち上がる。顔を洗い、髪を整える。鏡の中の自分をチェックする。どこにも綻びはない。
ドアを開けて外に出る。
将臣は起きていて、ヘッドボードに寄りかかってスマートフォンを見ていた。私に気づくと、それを置いて手を差し伸べてきた。
「こっちへ来い」
私は歩み寄る。彼は私を腕の中に引き寄せた。額に軽いキスをされる。「バスルームに長かったな。逃げたかと思った」
心臓がどきりとする。「どうして私が逃げるの?」
彼は私をさらに強く抱きしめる。「さあな。ただ、時々お前が俺を見る目が、まるで敵を見るような気がするんだ」
『だって、あなたは敵だもの』
「馬鹿なこと言わないで。ただ、こういうのに慣れてないだけ。こんなに速くて、激しい展開に」
「俺も慣れてない。だが、ペースを落としたくはない」
彼は私にキスをする。優しく、そして深いキスを。
私は目を閉じ、そのキスに身を委ねる。この一瞬だけは。
これが長くは続かないと、分かっているから。
