第1章 ボス、新しい任務はあるか
黒いフェートンが、孤児院の門をゆっくりと抜けていく。
後部座席で、神野若芽は静かに座っていた。俯きがちにスマホを握り、目元は冷えたまま澄んでいる。
不意に、スマホがぶるりと震えた。
『ボス、最近どうっすか? 兄弟みんな会いたがってます』
神野若芽は細く整った指で画面を叩く。
『もう孤児院は出た。用があるなら川市に来い。しばらく休む』
『川市? ボス、でかい仕事っすか?』相手が食い下がる。
『違う。帰るだけ』若芽は淡々と返した。
電話の向こうが凍りつく気配。
『ボス、冗談っすよね? 孤児じゃ……孤児院育ちじゃなかったんすか? なんで今さら『家に帰る』って……』
だが、若芽は答えなかった。スマホをしまい、窓の外へ視線を投げる。
車内は、静かすぎるほど静かだった。
松本萬里はまだ胸が高鳴っている。さっきまで若芽がスマホでやり取りしていたから邪魔をしなかったが、今なら話せると思い、家の事情を簡単に伝えて心の準備をさせようとした。
思わず若芽の手を握る。だが反射的に、若芽はぱっと振り払った。萬里が傷ついた顔をしたのを見て、若芽は言いにくそうに口を開く。
「ごめんなさい。人に触られるの、慣れてなくて」
「いいのよ。聞いてね。あなたにはお兄ちゃんが二人、妹が二人いるの。帰ったら、みんなきっとあなたを好きになるわ……」
車内には、萬里の声だけが続いた。
到着が近づく頃には、若芽もだいたい把握していた。正直、家族関係は少し複雑だ。
神野家は川市の名門で、松本家と並ぶ二大一族。
家大業大で人も多い。現当主の神野孝峰の代には三兄弟がいて、孝峰が長男。孝峰には今、子どもが四人――そこに若芽を加えると五人になる。
その話を聞いたとき、若芽は思わず固まった。萬里を見る目が、どこか妙になる。
家の者は皆優秀なのに、若芽だけが長年離れ離れで、外では食べるのにも困り、環境も悪かった。口数も少ない。きっと心のどこかで劣等感を抱えている――萬里にはそう見えて、胸が痛んだ。
だからこそ、倍にして愛そう。最高のものを与えよう。萬里はそう決めた。
……。
川市・高級住宅街。
夕暮れ、ようやく家に着いた。
萬里が先に降り、改めて若芽の手を取ろうとする。
若芽は車を降りると、軽く見上げて確認した。
四階建ての一戸建て。敷地は広く、外観はまるで城。窓のアンティークな彫花だけで、内装の豪奢さが想像できた。
萬里は、若芽が長く立ち尽くしているのを見て「豪邸に圧倒されたのだ」と勘違いし、胸の中でため息をつく。――可哀想な子。
「行きましょう、若芽」萬里が優しく言う。
若芽は淡い表情のまま、彼女に続いてホールへ入った。
夕食時。家長の神野孝峰と長男の神野唯臣がまだ戻っていない以外は、皆がリビングに集まっていた。広い室内は声が反響しそうだ。
二人が入ると、視線が一斉に向く。
若芽は相変わらず感情の読めない顔で、室内の何にも興味がなさそうに前だけを見ていた。
そのとき、可憐な影が萬里へ飛びつく。
「ママぁ! 一日どこ行ってたの? ずっと探してたんだから!」
末っ子の神野若帆だ。皆に甘やかされて育ったぶん少しわがままだが、成績は優秀。
萬里が答える前に、若帆は隣の若芽に気づき、眉をひそめた。
「なにこの田舎者。ここ、あたしの家なんだけど? 場所、間違えてない?」
若芽は淡々と一瞥し、萬里に視線を移す。
「部屋はどこ? 休みたい」
「は? 田舎者がうちに住む気?」若帆の声が甲高くなり、周囲の視線がさらに集まる。
「若帆、失礼なこと言わないの。この子はあなたのお姉ちゃん、若芽よ。今日はお姉ちゃんを迎えに行ってたの」萬里が叱る。
若帆は一気に逆上した。
「田舎者だもん! 嫌い! あたしのお姉ちゃんは若奈姉さんだけ!」
そう言い捨てて駆けていく。
すると、威厳のある年配の声が響いた。
「萬里、どういうつもりだい? どこの馬の骨かも分からないのを家に入れて、私の可愛い孫を泣かせるなんて」
銀髪の老婦人――神野大奥様。翡翠の首飾りに、暗紅の着物。落ち着きと品格、そして圧倒的な威圧感。まさにこの家の『上』だ。
「お義母さま、若芽です。今日、家に連れて帰ってきました」萬里は若芽の手を引き、深く頭を下げる。声は卑屈なほど低い。
「萬里、あんたは甘いよ。外には詐欺師が山ほどいる。神野家が金持ちだと知れば、群がってくる。十数年も経って、世の中が何度変わったと思う? そんな小さな子が、今さら都合よく見つかるものかね」
「でも、お義母さま。親子……」萬里が必死に言いかける。
「頑固で、愚かだね」大奥様は容赦なく遮り、踵を返して食卓の方へ向かった。
萬里はその場に立ち尽くす。義母の言葉は、子どもを傷つけすぎる。
だが若芽は、まるで自分のことではないように淡い顔をしていた。
そこへ、神野孝峰と神野唯臣が帰宅した。
若芽の姿を見て、孝峰は一瞬息を呑む。
背が高く、細い。髪は簡単なポニーテール。白磁のような肌に、非の打ちどころのない整った顔立ち。漆黒の瞳は、見つめるほどに底が見えず、どこかぞくりとする。冷たさの奥に、ふと覗く野性と傲り。
服装は普通のシャツにジーンズ。裾を無造作に入れ、細く白い脚が覗く。
――朝、妻が言っていた『娘』の話。だが、想像していたものと違う。
「なんでこいつがここにいる」孝峰が眉を寄せ、不機嫌そうに吐き捨てた。
