第1章
「助けて! 誰か……誰か、私の子を助けて……!」
桐生初夏は喉が裂けるほど叫んだ。だが桐生家の人間は彼女を市外れの朽ちた院に閉じ込め、周囲に人影などひとつもない。返事が返ってくるはずもなかった。
腕の中の赤ん坊は全身が紫色に変わり、泣き声は子猫みたいにか細い。今にも、ふっと途切れてしまいそうで。
「やだ……! お願い、赤ちゃん……!」
青白い頬を涙が伝い、身体はがくがくと震える。
「誰か来て! この子を助けて! 私は……私はまだ桐生家の長女よ! 私たちがここで死ぬのを――」
そのとき、ぎい、と木の扉が開いた。
白いミニドレスを着た少女が、ふわりと足を踏み入れてくる。汚れた小さな院には、あまりにも不釣り合いだった。
「お姉ちゃん、まだ桐生家の長女だなんて言えるの? 八か月前の乞食との一件で、桐生家の面子はとっくに地に落ちたでしょ!」
桐生初夏の異母妹――桐生麻衣。
「麻衣……私が悪かった。でも、この子は関係ないの。お願い、病院へ連れて行って……じゃないと死んじゃう。お願い……」
桐生初夏は血にまみれた手を伸ばし、彼女の裾を掴もうとした。
桐生麻衣は容赦なく蹴り飛ばし、鼻で笑う。
「助ける? あんたとその野種、まとめて死ねばいいのに」
「小さい頃からあんたは後継者として育てられて、桐生家の株を50%も握ってる。天の寵児ってやつ。私は? ずっとあんたの影で生きるしかなかった!」
「ねえ、お姉ちゃん。教えてあげる。あんたが身を汚したの、事故じゃない。私が仕組んだの。桐生家から追い出すためにね。びっくりした? あはははは!」
桐生初夏は信じられないというように目を見開いた。
あの一件で名誉は地に落ち、自分自身さえ「腐ってる」と思った。
――それが全部、桐生麻衣の陰謀?
妹として可愛がり、淑女の作法を教え、一流の名門校に入れるために手まで尽くしたのに。
返ってきたのは、恩知らずの牙だった。
「……この、畜生!」
桐生麻衣は桐生初夏の身体を踏みつける。笑みは甘いのに、目は悪鬼よりも冷たい。
「H市じゃあんたは人人に叩かれる存在。だからお父様はもう宣言したの。後継者は私だって。――お姉ちゃん、地獄へ行って」
「桐生麻衣……私が鬼になっても、絶対に許さない……!」
桐生初夏はふらつきながら立ち上がる。瞳の奥に、骨まで凍る憎しみ。
その動きで衣服がずれ、太腿の薔薇の痣がちらりと覗いた。
桐生麻衣の胸が、ひくりと動く。
最近、神崎家が大金をかけて「太腿に薔薇の模様がある女」を探している――神崎家の若様、神崎司の命の恩人だとか。
まさか、あの夜……この女が間違って寝た相手は神崎司だった?
桐生麻衣は一瞬考え、赤ん坊を乱暴に奪い取った。
「その可愛い顔、惜しいわね。野種なんて、死ぬなら外で死になさい」
桐生初夏はよろめきながら追いすがるが、身体が弱りきっていた。数歩で膝が崩れ、どさりと地面に叩きつけられる。もう起き上がれない。
「いやぁぁぁっ! 私の子……!」
桐生麻衣は獰猛に笑い、火をつけた。赤ん坊を抱いたまま振り返りもせず去っていく。
院はあっという間に炎に呑まれ、内側から凄惨な叫びが何度も響いた。火の粉が夜空を赤く染め――
――
四年後。
J市国際空港。
肩紐の赤いワンピースに、艶やかな巻き髪。若い女が、左右に小さな手を引いて到着ロビーへ出てくる。
「退屈」
プリンは薄い唇を動かし、スマホのゲームをつまらなそうに終了した。
他人なら一週間かかる謎解きを、彼は十分もかけずに全クリしてしまう。
「さすが、ママの宝物!」
桐生初夏は彼の頭を撫で、近くの警備員をちらりと見てから言った。
「プリン、妹のことお願いね。ママ、荷物取ってくる」
「絶対に走り回っちゃダメよ。ここ、悪い人もいるから」
プリンは鼻梁の黒いサングラスを指で押し上げ、大人ぶって言う。
「ママこそ迷子にならないで。荷物受け取りは右前方」
桐生初夏は案内板を見上げ、照れくさそうに首を傾げた。
「ごめんごめん。ママ、飛行機酔いしちゃってて」
プリンはため息まじりに首を振り、妹の手を引いてベンチへ座らせる。
――その瞬間。
いつも静かで無口な少女が、いきなり手を振りほどき、騒がしい人混みへ向かって走り出した。
小さな背中は、あっという間に群衆に呑まれて消えた。
