第8章
早朝、桐生初夏のスマホがぶるぶると震えた。
隣で眠る萌々を起こすのが怖くて、彼女はそっと起き上がり、リビングへ移動する。
「もしもし。暗網で依頼を受けたHNさんでしょうか。私は手塚直哉、シグナルグループの代表です」
――大舅。
桐生初夏は胸の内で、小さく呼んだ。
祖父はすでに八十を越え、経営の実権は譲っている。いまは大舅の手塚直哉が社長、二舅の手塚和也が副社長だ。
「……ええ」
初夏は声を落とし、できるだけ平静を装う。
「こちらの報酬は高い。ただし要求水準も高い。あなたの実力が基準に届かないと判断した場合、こちらはいつでも中止申請ができる。その際は違約金も支払ってもらう」
手塚直哉は淡々と言い切った。
「ハイリスク、ハイリターンだ。覚悟はあるか」
もちろんだ。
桐生初夏は、問題を潰すために戻ってきた。
そもそも暗網に人材募集の情報を流し、相手に「探させた」のも彼女の布石だ。そうでなければ、これほど自然に任務を引き受ける形にはならない。
「承知しています」
「よし。ではHNさん、直接会って話そう。朝九時、シグナルの会議室で待っている」
掌握者らしい圧のある口ぶりだった。
初夏はそれ以上は言わず、通話を切った。
昨日の妙な男のこともあり、子どもたちをホテルに置いていくのが不安だ。結局、二人とも連れて行くことにした。
「ママ、本当にここで組むの?」
プリンは棒付きキャンディをくわえたまま、ゲーム画面から目を離さず言う。
「報酬、少ない」
桐生初夏は少しだけ考え、静かに答えた。
「ここには、私が欲しいものがあるの」
手塚家はもともと名門だった。
かつて母は一文無し同然の父を愛し、数億の持参金を持って迷いなく嫁いだ。その資金を元手に、桐生グループは立ち上がった。
――なのに。
母が病で亡くなって四か月も経たないうちに、桐生浩一という屑が、桐生麻衣母娘を連れて家に乗り込んできた。桐生麻衣は、初夏よりたった一歳下。
あの男は、ずっと前から裏切っていたのだ。
そして母が遺した株も、四年前――桐生麻衣に嵌められ、名誉を失ったその日に、力ずくで奪われた。
今度は、取り返す番だ。
手塚家と組むのは、その第一歩。
「ママが欲しいものって?」
プリンがようやく顔を上げた。まるで「僕が用意できないものなんてあるの?」とでも言いたげに。
ちょうどタクシーがシグナルグループの正面玄関に滑り込む。
初夏は意味ありげに笑い、二人をそれぞれ抱き上げた。
「中に入ってからね」
会客室には、手塚直哉と技術部の面々がすでに揃っていた。
扉を開けた瞬間、手塚直哉は煙草を持つ手をわずかに止め、疑うような目を向けてくる。
「君がHNさんか? ……その腕の二人は、子ども? 子ども連れで商談? 本気なのか」
手塚直哉はHNの情報を調べていた。
コンピュータ分野の頂点。最高難度しか受けず、失敗しない――そんな人物が子どもを連れてくるとは。
「その顔、こっちが冗談かと思いますけど」
桐生初夏は軽く笑い、二人を下ろして、堂々と見返した。
数年ぶりの大舅は随分と落ち着き、総裁らしい風格がある。
だがその反応を見る限り――彼はもう、彼女の顔も声も分からない。
「総裁も興味本位で聞いてるだけなんですがね……本当に、人工知能が分かるんですか?」
背後の技術者が、思わず口を挟んだ。
同じ頃、神崎グループ。
朝会を終えた神崎司は、足早に執務室へ向かっていた。
特別補佐が後ろから追い、声を潜めて報告する。
「社長、HNに動きがありました。どうやら手塚家に接触したようです」
神崎司は足を止め、横目で問う。
「手塚家? 条件は。倍にする」
「接触を試みましたが、拒否が固いです」
特別補佐は悔しそうに続けた。
「それと、信頼できる筋の話ではHNは女性で、男女の双子がいるとか……とんでもない天才ですね」
男女の双子――。
なぜか神崎司の脳裏に、あの女の顔と、かすかな香りが浮かぶ。
だがすぐに打ち消した。
あの女は狡猾で、実力のない小賢しいタイプだ。
寡黙で孤高、正体不明の天才開発者HNであるはずがない。
神崎司は指を鳴らし、淡々と言った。
「車を用意しろ。最終的に手塚家を選ぶかどうかは関係ない。友人として会っておく」
