第1章 生まれ変わり
瀬川凪紗視点
「死ね!」
宮本良介の声が落ちた瞬間、私はまた冷たい海へ押し沈められた。
両手でめちゃくちゃに水面を叩く。湿ってしょっぱい海水が喉から肺へ流れ込み、灼けるように痛くて、声が出ない。
――どうして。
声にならない叫びが喉の奥で潰れ、視界が絶望に滲んだ。
私は宮本良介に嫁いで三年。宮本家をY市で頭角を現す家に押し上げ、名家の仲間入りまでさせた。
良介は功成り名遂げようとしている――それなのに、なぜ私を殺そうとする?
海辺は死んだみたいに静かだった。私の悲鳴は、咆哮する波にあっという間に掻き消される。
「叫べよ。ほら、もっと叫べ。誰が助けに来るって?」
宮本良介の高笑いが、骨に絡みつく毒蛇みたいに耳へまとわりつく。
「俺がなんでここに連れてきたか、わかるよな?」
「海だ。喉が裂けるまで叫んでも、誰も来ねえ」
「瀬川凪紗……この日をどれだけ待ったと思ってんだ。やっとだ」
必死に暴れ、肺が裂けそうになるまで叫ぶ。
「どうして……どうして、こんなことを!」
「そんなに知りたいか。教えてやるよ」
宮本良介の目に冷たい刃が宿る。私の首を掴む指が、ゆっくりと締まっていった。
「俺はおまえを愛したことなんてない。……いや、顔を見るだけで吐き気がする」
「もともと、香織と俺は相思相愛だった。おまえが割り込まなけりゃ、引き裂かれたりしなかった」
「十年待ったんだ。やっと願いが叶う。はは……」
全身が凍りつく。底なしの氷穴に落ちるみたいに。
「……最初から従姉さんと……伯父さん一家と、グルだったのね。じゃあ、私の両親の事故も……」
「当たり。あの交通事故は、俺たちで仕組んだ」
「今度はおまえの番だ。早く行けば、あの二人に追いつけるだろ」
「はは、瀬川凪紗。恨むなら自分を恨め。目が節穴で、俺なんかを選んだんだからな!」
宮本良介の狂った笑い声とともに、私の記憶は果てのない海へ沈んでいった。
……
「凪紗、ちょっとここで待ってて。カメラ取ってくる。あとで海とのツーショット、いっぱい撮ろう」
男の声が、唐突に意識を引き戻した。
私ははっと目を開け、周囲を見回す。そこはホテルのバルコニー。背後には、見渡す限りの海。
「凪紗、すぐ戻るから。待ってろよ」
――宮本良介の声。
冷や汗が背中をつたった。
海、ホテル……まさか。
――私、戻ってる?
「凪紗、カメラどこ置いた?」
隣の寝室から声がする。私は確信した。生まれ変わっている。
血の気が引き、全身がこわばる。前の人生で良介にされたことが、脳裏をえぐるように蘇った。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。血が滲んでも痛みはない。
宮本良介――前の私は、おまえのために金も力も注ぎ、裏方として尽くした。
おまえが頂点に手をかけたその瞬間が、私の死期だった。
三年の全てが、死で返ってきた。
おまえが私に与えた苦しみ、全部――千倍にして返してやる。
……復讐する。今度こそ。
そう決めた瞬間、私は迷わず玄関へ走り、ドアを開けて飛び出した。
「凪紗! 凪紗、どこ行くんだよ!」
背後から声が飛ぶ。追いつかれたくなくて振り返れない。
スカートの裾を掴み、ホテルの廊下をひたすら走った。
幸いホテルは広い。曲がり角をいくつも抜けて、ようやく宮本良介を撒く。
息を整える間もなく、また声が近づいた。
「凪紗、どこだ? もう、ふざけるなよ。出ておいで、な?」
追ってくる足音。私は焦って、近くの客室のドアを叩いた。
開いた瞬間、体をねじ込むように中へ滑り込む。
カチャン、とドアが閉まり、外の音が断ち切られた。
「……なに? サービス?」
耳元で男がからかう。
顔を上げた途端、血が一気に頭へ昇った。
目の前の男は裸同然で、腰にタオルを斜めに引っかけているだけ。落ちそうで落ちない。
風呂上がりなのか、濡れた髪から水滴が転がり落ち、冷たく白い肌の線をなぞってタオルの中へ消えた。
私は慌てて目を閉じ、顔を逸らす。頬が一気に熱くなる。
「おっ。迷い込んだ小猫ちゃんってわけか」
「なぁ。俺の部屋に来て、なにするつもり?」
男が身を屈めて近づく。清冽な香りが鼻先をくすぐった。
耳元に顔を寄せ、深く吸い込む気配。温かい指が顎を持ち上げ、無理やり顔を向かせる。
「それとも瀬川さん、抱きついてくる展開が好き? ……宮本の男に飽きたとか?」
――私の名前。
驚いて見上げ、ようやく気づいた。
目の前の男は、神崎倫司だった。
Y市で名の知れた放蕩息子。家柄を盾に女をとっかえひっかえ。
彼のせいで女が高層ビルの屋上で自殺騒ぎを起こした時も、電話口で返したのは「知らねえ」だったという。
それ以来、クズ男の悪名はさらに高まった。
私は彼を知っている。宮本良介の商売上の宿敵。
前の人生、私は良介のために神崎倫司の仕事を何度も奪った。二人は血みどろで争った。
結局、私の助けで良介が一歩上を行った――そのはずなのに。
今、私はその神崎倫司の部屋へ迷い込んでいる。
「わ、私は……」
言いかけた唇に、指が押し当てられた。
節の浮いた指が赤い唇に触れ、心臓が跳ねる。
見上げると、彼の悪戯っぽい笑みが深くなる。
「喋るな。俺が当ててやる」
わざとらしく声を伸ばし、指先で唇をなぞる。
逃げようとした耳に、低い笑い。
「動くな。……キスされたくないなら、いい子にしてろ」
「……っ!」
羞恥と悔しさで目が潤む。私は震える声で吐き捨てた。
「……最低!」
「はは……」
神崎倫司は声を殺して笑い、胸が揺れる。まるでその呼び方が気に入ったみたいに。
「可愛いな。罵り方まで別格だ」
「他の女が俺をどう罵るか、知ってる?」
私は顔を赤くして、意地を張る。
「知りたくない」
「いいよ。教えてやる。ほかの女はな――『優しくして』って言うんだ」
耳元へ落ちる、甘くいやらしい囁き。頬の熱が引かない。
「離して!」
両手で押しても、彼はびくともしない。
逆に手のひらが彼の分厚い胸板に触れてしまい、細い目が面白そうに細まった。
「そんなに待てない?」
神崎倫司は片腕で私を引き寄せ、抱き込む。
裸の上半身の男の匂いが、容赦なく私を包んだ。
前の人生、宮本良介と夫婦として三年。男女のことなど知っているはずなのに――。
神崎倫司に抱かれているだけで、手足が力を失う。危険だ、と本能が叫ぶ。
「離して……!」
意外にも、神崎倫司はあっさり手を放した。
「……あ」
言いかけた瞬間、ドアが激しく叩かれた。
「凪紗! 中にいるのか? 開けて!」
