第2章 逃げ場はない

カチャリ。神崎倫司の手がドアノブに掛かった瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。

「だめ……」

咄嗟に、彼の手首を掴む。

照明の下で、私の細い白い指と、男の褐色の腕が絡み合う。その取り合わせが視界に飛び込んだだけで、羞恥が一気に込み上げ、顔が熱くなった。

引っ込めようとしたのに、神崎倫司のほうが速い。

手首を返され、私の手のひらはするりと彼の掌の中へ落とされる。

ざらりとした指が掌を擦り、くすぐるように撫でてくる。瞳には露骨な戯れ。

「『だめ』じゃなくてさ……瀬川さんには『いい』って言ってほしいんだ。俺と一緒にいるって……な」

「あなた……」

下唇を噛みしめる。目の奥がじわりと潤んだ。

何度も何度も玩ばれて、悔しくて、泣きそうになる。

それを見た神崎倫司は、さらに愉しそうに目を細めた。

「言えよ。言わないなら――開ける」

外では宮本良介が執拗にドアを叩き、内側では神崎倫司が答えを待っている。

復讐には、準備が要る。

宮本良介に気づかれたら終わりだ。油断した一瞬に、喉元を掻き切る。そのためには、今はまだ――顔を合わせられない。

しかも私は、宮本良介の天敵である男と、しかも半裸同然の姿の男と同じ部屋にいる。

ここで見つかったら、どれだけ口があっても言い訳など通らない。

宮本良介に掴まるくらいなら。

神崎倫司のこの程度の要求なんて、取るに足りない。

一度、目を閉じる。次に開いたとき、視界は妙に冴えていた。

背水の覚悟を読み取ったのか、神崎倫司の細長い桃花眼が、さらに興味深そうに輝く。

掌を弄んでいた指が止まり、低く掠れた声が耳へ落ちた。

「決めたなら言えよ。俺と一緒にいるって、聞かせて」

「言わないなら……外の宮本良介に渡す」

脅しのくせに、どこか甘い。逃げ道を塞ぐ囁き。

心臓がどくん、と跳ねた。

私は腹を括り、猫の鳴き声みたいに小さく漏らす。

「わ……私……」

神崎倫司の大きな身体が迫り、顎が私の頭頂に触れる。こすれる感触に、背筋がぞわりとした。

くぐもった声が落ちる。

「何だ?」

背中はドア。退けない。

私は勢いで吐き出した。

「あなたと一緒にいたい!」

言った瞬間、神崎倫司が目を丸くした。

やがて、声を殺して笑い始める。胸が上下し、笑いが漏れる。

「……いい子だ」

「言ったな? なら、これからは俺のだ。反故にするなよ」

そう言って、頬を軽くつまむ。

「……っ」

返す言葉もないまま、外の叩く音がさらに激しくなった。

「凪紗! 中にいるんだろ! 出てこい、出てこいって!」

今日はどうやら、このドアをこじ開ける気だ。

胸の奥がひやりとして、思わず神崎倫司を見上げる。

「俺がいる。怖がるな」

神崎倫司は私を少し後ろへ押し、手を握ったままドアを開けた。

廊下には宮本良介。狂った獣みたいに息を荒くし、目は血走っている。

神崎倫司を見た途端、怒りが燃え上がった。

「神崎倫司! なんでお前がここにいる! 凪紗はどこだ!」

心臓が暴れる。手を引こうとしても、神崎倫司はむしろ強く握り返した。

「面白いな。宮本さんが婚約者探しで、俺の部屋に来るとは」

「知らない奴が見たら、俺と瀬川お嬢様が出来てるって思うぞ?」

「神崎倫司、ふざけるな!」

宮本良介は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

「俺は見たんだ! 凪紗がこっちへ走った! 近くの部屋は全部当たった、残ってるのはお前の部屋だけだ!」

「どけ! 中を見せろ!」

神崎倫司は笑った。だが、目は笑っていない。

「入りたい? いいぜ」

私の心臓が吊り上がる。

不安のはずなのに、胸の奥が酸っぱく痺れるようにざわついた。宮本良介に報いを与えている――そんな快感が、毒みたいに滲む。

でも、今は捕まりたくない。

掌をそっと動かして合図しようとしたが、神崎倫司はさらに強く握り、指先で掌を軽く掻いて『動くな』と告げる。

そして、涼しい声で続けた。

「ただ、宮本さん一人じゃ退屈だな。記者でも何人か呼んで、一緒に入ってもらうか?」

その一言で、宮本良介の足が止まった。

だがすぐ、疑う視線が神崎倫司の掌へ向く。そこから覗く、白い指先――女の手。

「……部屋に女がいるのか?」

神崎倫司は鼻で笑った。

「笑えるな。お前だけが遊び放題で、俺はダメってか?」

「管轄外だろ、宮本さん」

そう言って、彼は私の手の甲へ軽く口づけた。

熱が走り、私は反射的に口を押さえて息を殺す。

神崎倫司が、楽しげに言う。

「入って見学するか? 俺が女とどうヤるのか」

「覚えたら、お前の瀬川さんに使えばいい。下手すぎて捨てられないようにな」

「お前……っ、調子に乗るな!」

宮本良介は歯ぎしりし、捨て台詞を吐いて背を向けた。

「……好きにしろ!」

足音が遠ざかる。

張り詰めていたものが切れ、脚がふらつく。膝が笑って、崩れ落ちそうになった。

次の瞬間、神崎倫司が素早く支え――そのまま抱き込んできた。

「そんなに急ぐ? 凪っちゃん……」

肩に、軽いキス。

白い肌に淡い紅が残るのがわかって、息が詰まった。

神崎倫司はそれを見て、ふっと表情を止める。

指先で赤みをなぞり、瞳の奥に暗い潮が揺れた。

「……手がかかるお嬢さんだな」

これ以上、踏み込まれたくない。

私は力いっぱい彼の胸を押し、突き放す。

神崎倫司は数歩よろけたが、怒るどころか両手を上げて笑った。

「助けてもらって、渡り終えたら橋を壊す気?」

頬が熱い。私は唇を噛み、わざと澄ました顔を作る。

「本日は神崎さんに助けていただき、ありがとうございました。いずれ必ずお返しします」

部屋が、すっと静まり返った。

しばらくして、神崎倫司の低い声。

「……いずれじゃなくて、今がいい」

「俺が欲しいのは、目の前のやつだ」

目の前?

眉を寄せた私に、神崎倫司は喉の奥で笑う。

「まさか、半月後――まだ宮本良介と結婚するつもりじゃないよな?」

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