第6章 理性を失わせる
宮本良介視点
瀬川凪紗が去った途端、俺の顔から血の気が引いた。
今夜の凪紗は、あからさまによそよそしかった。何が気に障ったのか、見当もつかない。
海に行ったときはあんなに笑っていたのに。俺がカメラを取りに行った隙に――逃げた。
ホテル中をひっくり返しても見つからない。なのに、胸の奥がざわつく。
あの失踪は、神崎倫司と無関係じゃない。証拠はないが、あいつはどうにも胡散臭い。
あいつが表も裏も使って凪紗を狙ってるのは知ってる。
凪紗は家の躾がいい。Y市でも名の知れた従順なお嬢さんだ。だから安心していた――今夜までは。
何かが、手のひらからすり抜けていく感覚。なのに掴むべき根が見つからない。
原因は、神崎倫司か?
煙草を取り出して火を点け、苛立ちのままにふうっと煙を吐く。輪になった煙が、天井へゆらりと溶けた。
一本吸い終えた頃、ようやく気持ちは落ち着いた。
――考えすぎだ。凪紗がちょっと拗ねただけかもしれない。
それに、あと半月で結婚だ。この土壇場で、わざわざ騒ぎを起こすはずがない。
そう思ったところで、スマホが鳴った。
画面を見て、思わず口元が緩む。
つい最近知り合ったモデルだ。みずみずしい顔立ちで、見ているだけで胸が騒ぐ。
気を引くために金は散々使った。だが、肝心のところは許さない。
吊るす気ならいい。俺のほうから連絡を切ってやった。
なのに、たった数日で向こうから電話。結局、我慢できなかったってことだろ。
女は甘やかすとつけ上がる。
「……もしもし」
通話を繋げ、気だるく言う。
「川島さん、何の用?」
受話口の向こうで、甘ったるい声がくすりと笑った。
「良介兄ちゃん。私、今日はちゃんと手料理作ったの。食べに来て? 住所は送ってあるから……来てよ」
媚びた甘え声が、脳の奥をじわりと舐める。
一気に、腹の底から熱が立ち上った。
俺は舌打ちを飲み込み、ネクタイを緩める。
「十分钟後な」
料理なんてどうでもいい。
メインは、あいつだ。
今夜、その身体が俺の下で大人しく啼くと思うだけで、呼吸が荒くなる。
さっきまで「他の女は控えて凪紗を宥めよう」なんて思っていた自分が馬鹿みたいだった。
凪紗の頭で、俺が外でどれだけ遊んでも気づくわけがない。
あと半月で、凪紗は俺の妻になる。大人しくするのは、その後でいい。
今はただ――この世の極上を味わいたい。
そう決めた瞬間、アクセルを踏み込む。
車体がぐん、と前へ跳ねた。
瀬川凪紗視点
翌朝、目が覚めるとスマホには宮本良介からのメッセージが何通も溜まっていた。
私は慌てず、一本だけ返す。
それから起き上がり、淡々と身支度を始めた。
白のウエストを絞ったドレスを選ぶ。柔らかな生地が肌に沿い、身体の線を嫌味なく浮かび上がらせる。
鏡の前でくるりと回ると、思った以上に悪くない。
今日は、復讐の日。
なら、綺麗にしていかなきゃ。
運転手に競馬場まで送らせる。遠目に見えたのは、従姉の瀬川香織と宮本良介が並んで笑っている姿だった。
香織は胸元の大きく開いた赤いドレス。炎みたいな色が、雪のような肌をいっそう白く見せる。
張った胸が今にも零れそうで、男たちの視線が吸い寄せられていく。
香織はそれを楽しむように、わざと良介の腕へ身体を寄せた。
「良介!」
手を上げて呼ぶと、良介は香織からさっと距離を取り、こちらへ急いで来る。
香織の顔に、嫉妬が一瞬だけ走った。
――いい。嫉妬して。嫉妬は理性を奪う。
私はわざと彼の腕に絡みつき、頬を膨らませる。
「朝、迎えに来てくれるって言ったのに。来てくれなかったじゃない。私、ひとりで来ちゃった」
「ごめん、凪紗。寝坊した。俺が悪い……次は絶対しない」
あの男の頭の中が、別の女で埋まっているとも知らずに。
「じゃ、入ろう」
良介は私の手を軽く押さえ、笑顔のまま入口へ歩き出した。
私たちが腕を組んで入るのを見て、香織の表情が露骨に曇る。
けれどすぐ、貼り付けたような笑みに戻った。
「凪紗、来たのね。今日、すっごく綺麗」
本当に、よく演じる女だ。
前世の私は、こいつと良介の関係を最後まで見抜けなかった。
私は足を止め、香織を一瞥してから、柔らかく言う。
「従姉さん、その服すごく似合ってる。でも――ちょっとだけ良くないかも。今日は男の人、多いし」
しまった、というふりをして口元を押さえる。
「ごめんなさい、従姉さん。わざとじゃないの。ただ心配で……でも従姉さん、彼氏いないし、何着るかは自由だもんね」
それから私は良介へ視線を移し、品よく微笑む。
「私みたいに恋人がいると、相手のこと考えなきゃだし。ね、良介?」
「そうそう。凪紗は一番いい子だ」
良介は頷きながら――ほんの一瞬、香織の胸元へ目を滑らせた。
香織の顔色がさっと悪くなる。慌てて胸元を押さえ、何か言いかけた。
でも、私は言わせない。
「うん。早く入ろ」
私は良介の腕を引いて数歩進み、振り返って呼ぶ。
「従姉さんも、早くおいで」
香織の目が暗く沈み、火が灯るみたいに赤くなった。
私は気づかないふりをしながら、心の中で嗤う。
――その程度で揺れるの?
私がいる限り、安泰なんて思わないことね。
わざと怒らせる。理性を失わせる。
今日は、思わぬ収穫があるはずだ。
競馬場は広く、客席にはすでに人がぎっしりだった。
良介は私を貴賓席へ案内し、座って間もなく、スタッフが彼に耳打ちする。
良介は一瞬、私の様子を探るように目を向けた。私が何も気づいていないと確認すると、静かに立ち上がって去っていく。
――来た。
彼がいなくなってすぐ、私も席を立つ。
物陰に身を隠しながら尾行し、彼が最上階の貴賓ラウンジへ入るのを見届けた。
閉ざされた扉の前で、私はスマホを取り出して電話をかける。
待つまでもなく、ほどなくして部屋のカードキーが届けられた。
競馬場には、うちの持ち分がある。
カードキーを手に入れる程度、造作もない。
ピッ――小さな電子音。扉が開く。
私は息を殺し、するりと中へ滑り込んだ。
室内は広く、がらんとしている。人の気配はない。
けれど次の瞬間、露天のプールのほうから、くすくすという笑い声が聞こえた。
カーテンの陰から外を覗く。
水面には、白い身体が二つ。絡み合い、溺れるように求め合っていた。
「ねえ。結局、あたしと瀬川凪紗、どっちを選ぶの?」
香織の甘い喘ぎ混じりの声が、プールサイドに弾む。
「決まってるだろ。選ぶのはお前だ」
「瀬川凪紗なんか、好きになるわけない。お前の髪の一本にも敵わない」
続いて、良介の掠れた声。
「香織ちゃん……もう無理だ。頼む、させて……」
水がばしゃっ、ばしゃっと跳ね、女の甲高い声と男の荒い息が絡み合う。
吐き気を噛み殺しながら、私はスマホを構えた。
――これがあればいい。
宮本良介も瀬川香織も、誰も逃げられない。
私は小さく笑い、踵を返して部屋を出る。
そのまま立ち去ろうとした瞬間――背後で、かすかな足音。
ぞわり、と背筋が粟立った。
緊張で腕の産毛が逆立つのがわかる。
私は振り向き、声を張った。
「そこにいるの、誰?」
次の瞬間、全身を黒い服で覆い、顔まで隠した男が現れた。
手には、木の棒。握りしめる指に力がこもっている。
