第7章 俺が助けた
「――あなた、誰?」
目の前の男から漂う危険な気配に背筋が粟立つ。問いかけながら、私はそっと足を引いた。
「人違いじゃないの?」
「探してんのは瀬川さん、あんただよ」
男は冷たく笑い、手にした木の棒をすっと持ち上げる。
――まずい。
棒が振り下ろされる気配に、私は踵を返して駆け出した。
背後で男が一瞬だけ動きを止め、すぐに追ってくる足音が重なる。
「助けて! 誰か、助けて!」
宮本良介に気づかれるかどうかなんて、もう考えていられない。私は廊下の客室を片っ端から叩いた。
ドンドン、ドンドン。
けれど、どの扉も沈黙したまま。誰ひとり出てこない。
心が沈む。ここは競馬場がVIP用に用意した休憩フロアで、関係者以外は上がれない。しかも今、客は皆レースへ行っている。部屋に人がいるはずがなかった。
額から冷や汗がつうっと落ちる。
振り返ると、長い廊下の暗がりから、男が木の棒を引きずりながらじりじり迫ってきていた。
焦りで手が震える。私は運転手の小林辰雄に電話をかけた。
「小林辰雄! 私、ホテルの4階! 早く来て、助けて!」
『お嬢様、どうなさったんですか?』
受話口から上がる悲鳴みたいな声。説明している時間がない。
「男が……私を殺そうとしてるの! 今すぐ上がって!」
『お嬢様、落ち着いてください。すぐ向かいます。電話は切らないで、繋いだままで――』
車のドアを開ける音がした瞬間、はっとする。今、小林辰雄は駐車場にいる。ここまで最短でも十分はかかる。
――その間に追いつかれる。
頼れない。
「ホテルの人を上に呼んで!」
私は受話口に向かって叫ぶと、エレベーターへ走った。
乗り込む瞬間、入口に置かれていた消火器を抱え込む。
「早く……早く!」
狂ったように閉ボタンを連打する。じわりと合わさっていく扉。喉まで心臓がせり上がった、その時――
扉が、止まった。
隙間から男の手がねじ込まれ、次いで、目元まで覆った顔が覗く。
「瀬川さん、逃げられねえぞ!」
言い終わるより早く、私は消火器を振り上げ、男の頭へ叩きつけた。
ゴンッ。
男は予想していなかったのか、鈍い音を立ててぐらつく。頭を押さえて怯んだ隙に、私は外へ飛び出した。
――逃げなきゃ。
だが一歩踏み出した瞬間、服を乱暴に引っ張られた。
「っ……!」
どさり、と体が床に叩きつけられる。
「俺に手ぇ出しやがって!」
男が獣みたいな顔で覆いかぶさり、その手が喉へ伸びた。締まる。息が奪われる。
男の頭から溢れた血が、ぽた、ぽたと私の頬へ落ちる。生臭さと吐き気を誘う匂いが鼻腔を塞ぎ、視界が揺れた。
この男が誰かなんて、どうでもいい。
このまま絞められたら――死ぬ。
私は地面のバッグを掴み、必死に男の顔へ叩きつけた。
「離して! どいて!」
男が甲高い悲鳴を上げた。目元から血が噴き出す。手で目を押さえた瞬間、私は腕の間から滑り抜け、よろめきながら立ち上がった。
「助けて……! 助けて!」
服は乱れ、喉は焼けるように痛い。全身血だらけで走り、いつの間にか靴も片方脱げていた。
「止まれ!」
男が頭を押さえながら、なおも詰めてくる。
逃げ場がない。私は再びエレベーターへ飛び込んだ。
「小林辰雄! どこなの! 私、エレベーターの中! 早く!」
泣きそうな声で叫ぶ。
『お嬢様、すぐ着きます! もう少しだけ耐えてください!』
その言葉が終わる前に、私は見た。
扉の隙間に、また男の手が差し込まれる。
絶望が喉元まで込み上げた、その時――。
「瀬川凪紗……」
低い男の声が扉の向こうから落ちてきた。
私の手から、バッグがぱさりと床へ落ちる。
呆然と見上げた先にいたのは、神崎倫司だった。
「……あ、あなた……なんでここに」
「大丈夫か?」
神崎倫司は私の問いに答えず、私の有様に視線を落とす。目がすっと暗くなった。
次の瞬間、彼は自分のスーツジャケットを脱いで私の肩に掛け、そのまま腰に腕を回して抱き上げた。
「もう平気だ。怖がるな」
抱えられた体に、温かさが満ちる。張り詰めていた鼓動が、少しずつほどけていった。
――よかった。来たのが神崎倫司で。
でも、すぐに疑問が浮かぶ。どうして彼がここに?
ホテルの一室。医者が数人がかりで手当てをしてくれた。幸い、擦り傷程度で大事には至っていない。
医者たちが出ていったあと、私は顔を上げた。
「……結局、どういうことなの。さっきの男は? それに、どうして神崎さんがここにいるの?」
神崎倫司は私の首筋の傷に目を落とし、確かめるように視線をなぞってから、ようやく体を起こした。
「上に上がってきた時、君の助けを呼ぶ声が聞こえた。それで駆けつけた。……だが、あの男は偶然じゃない。前から狙ってた手口だ。会うか?」
「前から……?」
心臓がひゅっと縮む。
宮本良介と従姉を尾けたのは思いつきだった。なのに、どうして――。
宮本良介の差し金? いや、それでも今このタイミングで私を殺す理由がない。
迷っていると、神崎倫司が言った。
「怖いなら、無理に会わなくていい。俺が――」
「いいえ。会います」
私は遮って、まっすぐ告げた。
「神崎さん、その人を連れてきてください」
「……覚悟しとけ。今、そいつは少し“ひどい状態”だ」
私が頷くと、神崎倫司は軽く手を打った。
すぐに、全身血まみれの男が引きずられるようにして入ってくる。
「助けてください! 俺、ほんとに悪かった! 許して……!」
男は床に丸まり、震えながら謝り続けた。
「ちゃんと跪け」
神崎倫司の声が落ちた途端、男はびくりと跳ね、慌てて体勢を整えて私たちの前に正座のように跪いた。
「話せ。なんで瀬川さんに手を出した」
いつも飄々としている神崎倫司が、今は氷みたいに冷たい。目には噛み殺すような鋭さが宿っていて、別人に見えるほどだった。
私は思わず身震いし、視線を逸らして男の顔をよく見る。
――どこかで見たことがある。
「顔、上げて」
男はゆっくり顔を上げ、両手を合わせて何度も頭を下げる。けれど神崎倫司の圧に押され、声を出すことすらできない様子だった。
顔がはっきり見えた瞬間、息が止まる。
「……あなた、あの時の――!」
